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WRカーの思い出 Vol.1 1997-2002 ~ 群雄割拠の季節 | 20世紀生まれの青春百景 #31

 今回からわたしの原点であるWRC(世界ラリー選手権)を取り上げる企画を始めようと思う。

 WRCに興味を持ったのは小学校一年生(2007年)から。リアルタイムで体験したのが2007年のアクロポリスからで、それ以前に関してはビデオであったり、書籍であったり、そういったものを観ることで吸収していった。今振り返ると、2011年以降の1.6L+ターボのWRカーや2017年以降の市販車ベースからさらに拡大されたWRカーよりも、わたしは2.0L+ターボのWRカーにとても思い入れがあることがわかった。

 WRカー(World Rally Car)とは、簡単に言うと、スバル・インプレッサや三菱・ランサーエボリューションのような4WD(四輪駆動)のクルマを持たないメーカーにも門戸を広げるための規定である。1987年からのグループAは市販車をベースとし、改造範囲が厳しく限定され、12ヶ月間に5000台以上の生産義務がホモロゲーション(認証)の条件となるなど、特に4WD車を持たない欧州メーカーにとってはきつい規定だった。WRカーはそういったメーカーに駆動方式の変更やターボの装着を可能とし、時には例外も認め、量産台数も緩和された。

 この規定が始まる前、1997年にそういったメーカー、とりわけフランス車のために開かれたのがF2キットカー規定で、2WD+自然吸気エンジンながらもWRカー移管後もターマックラリーではトップドライバーやトップマシンを凌ぐスピードを見せつけた。プジョー・306マキシのジル・パニッツィやフランソワ・デルクール、シトロエン・クサラのフィリップ・ブガルスキーやヘサス・ピュラスの勇姿を覚えている人も少なくないだろう。

 昨年発売されたゲーム『EA SPORTS WRC』を遊んでいると、WRカーが特に充実している。スズキはいないし、三菱はエボⅥしか収録されていないが、他のメーカーは代表的な車種がほぼ揃っている。グループ4から現代のラリー1に至るまで、あらゆるラリーカーが収録されたゲームだけども、やはりわたしはWRカーの存在を語らずにはいられない。

 今回からは特別篇ということで、毎週一度のお休みの日にWRカーを一台ずつ振り返る企画を立ち上げた。

 初回はセバスチャン・ローブとペター・ソルベルグが選手権を席巻する直前の2002年までに登場するWRカーを取り上げよう。

スバル・インプレッサWRC(GC8型 / GDB丸目型)

 わたしがWRCを観始めた頃、スバルは苦闘の時代だった。クリス・アトキンソンは徐々に上昇気流に乗り始めていたが、エースのペター・ソルベルグは本人ではどうしようもないトラブルに襲われ、チームにとってもつらい展開が待っていた。

 90年代から00年代初頭のスバルといえば、コリン・マクレーやリチャード・バーンズを擁し、三菱やフォードとしのぎを削っていた。この頃のイメージが強い方も多いだろうし、わたしもスバルといえば今でもラリーのイメージしかない。22B-STIと呼ばれる特別仕様車もWRCでの栄光を象徴する伝説的車種として、近年のオークションでも高値の取引が話題となった。

 わたしはリチャード・バーンズがわずか一勝でチャンピオンを獲った2001年、ペター・ソルベルグが初優勝を飾った2002年が非常に印象に残っている。やはり、スバルといえばラリーであり、ペター・ソルベルグが喜びを爆発させている姿が今も忘れられない。

三菱・ランサーエボリューションWRC

 WRカーに時代が移った後も「市販車に技術を還元する」という大義名分の元、グループA規定で参戦を続けた三菱が2001年のサンレモからWRカーを投入した。もともと、2001年からはトミ・マキネン・エディション(通称“エボ6.5”)と呼ばれるグループA+αの仕様を投入していたが、ようやく投入されたWRカーは熟成不足としかいえない結果に終わった。

 そもそも、ランサーエボリューションという名前は付いているものの、実質的にはランサーセディアである。ギャランフォルティスをベースとしたランサーエボリューションⅩもそうだが、この時点で複雑な思いを抱いた方もいるだろう。

 エースドライバーのトミ・マキネン、フランソワ・デルクールをもってしても入賞権内にすら入ることが出来ず、2002年はヤニ・パーソネンが希望の光として時折好走を見せるものの、ラリーを通しての安定感には欠けており、アリスター・マクレーも苦戦。1年間の休止の後、2004年に復帰するが……ここからは次の機会に。

トヨタ・カローラWRC

 1997年の夏にTTE(トヨタ・チーム・ヨーロッパ)がカローラを引っ提げてWRCに復帰した時、“日本人の知らないカローラ”が映っていたことに驚いた方も少なくないだろう。

 当時のトヨタはわたしが生まれる前に活動を終了しており、プライベーターたちによる散発的な参戦が行われただけであったこともあって、カローラへの思い入れはほとんどない。ただ、マーカス・グロンホルムのインタビュー、ヤリ=マティ・ラトバラのカローラに対しての愛情やフランソワ・デュバルの思わぬ参戦などもあり、今ではフェイバリット・ラリーカーのひとつになった。

 有名な“マルガム・パークでの悲劇”もあってドライバーズタイトルは獲れなかったが、カローラはマニュファクチャラーズタイトルをトヨタにもたらした。一度でいいから、カローラがラリー・ジャパンのステージを駆ける姿を見てみたかった。

フォード・エスコートWRC

 フォード・エスコートというと、グループAの印象が強い。

 WRカー規定が始まってからの2年間は特例でエスコートを持ち込んだが、アルミン・シュヴァルツの不運によって誕生したカルロス・サインツ、ユハ・カンクネンという名ドライバーのコンビをもってしても、チャンピオンに近づくことはできなかった。ただ、サインツとカンクネンのコンビは二度の1-2フィニッシュを挙げた実績は特筆に値するだろう。

 特に、フォーカスへ開発の主軸が完全にシフトした1998年は残ったユハ・カンクネンが旧式のクルマを必死に結果へと結びつけようと奮闘していた。結果的に、カンクネンはフォードに何度かの表彰台をもたらした。マシンの開発が止まると若手ドライバーに託すチームも少なくないが、カンクネンのような大ベテランが円熟味ある走りで最大限の結果を挙げる姿はやはり格好良い。

フォード・フォーカスRSWRC(前期型)

 1999年。フォードはスバルから史上最高の契約金でコリン・マクレーをエースに迎え、ランチア以来となるマルティニ・カラーを復活させた。

 1997年にマルコム・ウィルソン率いるMスポーツにフォードがWRC活動を委託して以来、旧型のフォード・エスコートWRCで活動を続けていた。しかし、世界戦略車のフォーカスをベースに、1999年からはいよいよ大規模な予算が投入され、念願の世界王者奪取に向けて強力に走り出した。

 この時期のフォーカスはグラベルでは強かった。コリン・マクレー、カルロス・サインツのコンビは史上最強とも言える。 それでも、あと一歩王者には届かなかった。そんな中で、マルコ・マルティンとフランソワ・デュバルが少しずつ力を蓄えていく。下積み時代のペター・ソルベルグやミッコ・ヒルボネンもこのマシンでWRカーに慣れていった。Mスポーツの伝統ともいえる若手育成はここから始まったのである。

 余談だが、ハースの代表として名を馳せた若き日のギュンター・シュタイナーがメインデザイナーとしてマシン開発に携わっていたことを最近知り、偶然当時のインタビュー映像を発掘できたのはとても嬉しかった。

プジョー・206WRC

 「2002年までのWRカーで最強マシンは何か?」と問われたら、ほとんどの方が口を揃えてプジョー・206WRCの名前を挙げるだろう。三菱も206WRCには敵わなかったし、スバル・インプレッサWRCが二度にわたってドライバーズタイトルを奪取したが、2003年にシトロエンがその座を奪うまではマニュファクチャラータイトルの座を守り続けた。

 206といえば、マーカス・グロンホルムである。グロンホルムの存在無くして、プジョーの栄光を語ることはできない。日本人にも非常に人気が高いし、今でも彼の話になると盛り上がる。つまらないミスさえなければ、2006年と2007年はマーカスが王者だったかもしれないし、実際にグラベルではローブよりも速かった。そういえば、引退後にフィンランドで立ち上げたショッピングモールは今もやっているのだろうか?

 フランソワ・デルクール、ディディエ・オリオールといった大ベテランたちも乗り、各路面のスペシャリストであるジル・パニッツィやハリ・ロバンペラにも名声を築かせた。リチャード・バーンズも必死に乗りこなそうと頑張っていて、病に倒れるまではタイトル争いにも加わっていた。

 “憎らしいほどに強い。”

 その称号は後にシトロエンに移ることになるが、少なくとも2002年末まではプジョーの時代は永遠のように思えた。

シトロエン・クサラWRC(ワークス参戦前)

 現在ではフィアット・クライスラー・オートモービルズを抱き込み、ステランティスとして再編されたPSAグループ。その中で、シトロエンはプジョーと同様に古くからラリーへのコミットメントを続けていて、90年代も両ワークスはフランス国内選手権を中心に激しい戦いを繰り広げていた。

 シトロエンがWRCでその名を世界に轟かせたのは1999年。かつてグループB規定の時代にZXを投入していたものの、パリ〜ダカール・ラリーではアリ・バタネン、ピエール・ラルティーグが総合優勝を飾るなど、どちらかといえばラリーレイドでの名声の方が強かったシトロエン。しかし、名だたるメーカーやドライバーたちを押し除け、スペインとフランスでシトロエン・クサラF2キットカーが優勝を飾った。そんなキットカーからさらなるステップアップを図り、かつてWRCでドライバーとして活躍したギ・フレクラン監督の指揮の下、2001年に投入されたのがシトロエン・クサラWRCである。

 プジョー・205 T16やシトロエン・ZXの開発にも携わったジャン=クロード・ボカールの設計思想は「考えうる限り最もシンプルな機構を巧妙なアイデアで表現する」というもの。

 わたしが子どもの頃はシトロエンの強さをセバスチャン・ローブの能力と結びつけることしか出来なかったけれども、よくよく考えてみたら、マンフレッド・ストールも、トニ・ガルデマイスターも、フランソワ・デュバルも、ペター・ソルベルグも、プライベート仕様のクサラWRCで好成績を残していて、とにかくトラブルの少ないクルマだった。やはり、その信頼性の高さに裏付けされたハイレベルなクルマづくりがローブだけでなく、あらゆるドライバーに最大限の能力を発揮させていたのだと実感する。

 2002年まではまだまだ熟成期間といった感が否めなかったが、セバスチャン・ローブの1勝(+2001年のサンレモの2位、2002年のモンテカルロの2位)の他に、サファリラリーでトマス・ラドストロームが表彰台を獲得するなど、当時から高い信頼性を持っていたことがわかる。

 こうして万全の準備のもとに2003年からワークス体制でWRCに乗り込んでいったシトロエンはコリン・マクレーとカルロス・サインツという最高の“教師”のもとに、クサラWRCとセバスチャン・ローブをとてつもない怪物へと育てていくのだ。

セアト・コルドバWRC

 個人的にゲーム『EA SPORTS WRC』でもっとも驚いたのが、セアト・コルドバWRCの収録である。もともとイビサ・キットカーは収録されていたものの、まさか3年間で活動を終了させたセアトのWRカーが収録されるとは思いもしなかった。

 フォルクスワーゲン・グループの一翼を担うスペインの自動車メーカー『セアト』のことを知っている人は少ないだろう。わたしは『グランツーリスモ4』でその名前を知った。中学校の授業で真っ先に名前を挙げ、誰も知らない名前にクラスを驚かせたことは今でもちょっとしたネタにしている。

 WTCC(世界ツーリングカー選手権)での活躍は有名だが、WRCでもトニ・ガルデマイスターとハリ・ロバンペラが1999年のニュージーランドとイギリスでそれぞれ初表彰台を飾り、ディディエ・オリオールがサファリで表彰台に乗るなど、WRカー規定の導入をきっかけに参戦した他の4WD車を持たないメーカーの中では善戦した。(4WD機構はプロドライブのものを使用した)

 ディディエ・オリオールはフランソワ・デルクールともぶつかったマリオ・フォルナリスとの話は何度も書籍で読んだが、セアトでもかなりチームや開発陣とぶつかっていたという話をWikipediaの出典元で翻訳しながら読んだ際に知り、やはり一癖も二癖もある典型的な速いフレンチ・ドライバーなのだと実感した次第である。

シュコダ・オクタビアWRC

 セアトと同じくらい、或いは、ラリーを観ていない人にとってはセアト以上に日本での知名度が低そうなのがシュコダである。ただ、わたしはあらゆるラリーに参戦したメーカーの中でシュコダがいちばん好きだ。理由は単純で、ラリーへの愛情と情熱で走り続けてきたようなメーカーだから。同じ理由でMスポーツも大好きなんだ。

 シュコダ・ファビアWRCの前任を務めたのがこのオクタビアで、WRカーの中ではもっとも長い全長だった。実際、映像で観るオクタビアは非常に大柄に見えた。開発の多くはプロドライブが担当したが、これまでWRCに参戦したことのないチェコのエンジニアやメカニックたちが実際の運営を担当。ケネス・エリクソン、ディディエ・オリオール、ブルーノ・ティリー、スティング・ブロンクビスト、トニ・ガルデマイスターといった腕自慢たちが必死に牽引したが、この時期のシュコダといえば、わたしはアルミン・シュヴァルツのイメージが強い。

 セアトと比べても、明らかに熟成が進んでいない印象を受けたシュコダのラリー活動だが、それでもシュヴァルツが2001年のサファリで表彰台に登っている。シュヴァルツは一度ヒュンダイ(ヒョンデ)へ移籍するが、2004年には再び復帰し、2005年にそのまま引退。2006年に一年間だけ活動したレッドブル・シュコダでは代表も務めた。何がそこまで彼を惹きつけたのかと言いたい方もいるだろうけれども、わたしはシュヴァルツがシュコダに惹かれる理由がよくわかる。

 今でこそ、フォルクスワーゲン・グループの一角としてファビアが日本を含めた世界中のラリーを席巻しているが、このオクタビアがすべての礎をつくった。

ヒュンダイ・アクセントWRC

 イギリスの自動車番組『Top Gear』で“アクシデント”と呼ばれるなど、一時はひどい言われようだったヒュンダイ(今のヒョンデ)のクルマたち。ただ、20年が経った今、ティエリー・ヌービルやオット・タナックがWRCで常にトップクラスを走り、市販車ではヒュンダイのクルマが世界中を駆け巡るなど、一時期の悪印象はかなり払拭されつつある。

 ただ、WRCに最初に参戦した頃のヒュンダイは実績を残せなかった。もっと言うと、本社の都合で活動を全う出来なかった。スバルがプロドライブに活動を委託したのと同様に、ヒュンダイはMSD(モーター・スポーツ・ディベロップメント)に活動を委託した。最後の年には確執がかなり酷くなっていたようで、活動に必要な資金すらもヒュンダイ側が出し渋り、2003年のオーストラリアを最後に撤退。FIAが違約金を求めたが、その違約金をヒュンダイとMSDのどちらが払うかで裁判沙汰になった。(結果的にはヒュンダイが敗訴したが、その違約金の行方は今も明らかにされていない)

 しかしながら、MSDはヒュンダイ撤退の影響でスタッフの大幅な人員縮小を余儀なくされつつも、その後も活動を続行。

 ひとつだけ勘違いしてほしくないのが、ヒュンダイのWRC活動は本社の意向に運命を大きく左右されたが、決して現場にやる気がなかったわけではなく、少なくともドライバーにはかなり力を入れていた。ケネス・エリクソン、ピエロ・リアッティ、アルミン・シュヴァルツはベテランの実力派ドライバーであるし、フレディ・ロイクスもアリスター・マクレーも脂の乗ったドライバーだった。中でも、最晩年とはいえ、四度の世界王者であるユハ・カンクネンが招聘されたことはこのチームがドライバーを重視していたことの証明だろう。

 技術的には非常に保守的な部分が強く、あらゆる面で運命に翻弄された感のあるヒュンダイの第一期WRC活動。アジアの風に乗り、WRCに乗り込んでいった挑戦として、静かに語り継いでいきたい。

 わたしにとって、WRCとは青春そのものである。ラリーがなければ、クルマを好きになることはなかっただろうし、今でもこの頃のマシンには特別な思い入れがある。

 次回以降は、徐々にメーカーが撤退していくこともあって、今回ほどのボリュームにはならない。だからこそ、マシンだけでなく、当時に行われた試みやドライバーの思い出話も入れていけたらと考えている。もちろん今のWRCもおもしろいし、活きの良いドライバーたちがたくさん現れているが、デビッド・ラップワースのコメントと同じように、わたしは市販車ベースのWRCがいちばん好きだった。

 だからこそ、出逢った頃のWRCをこうして一度振り返ってみたい。もし良ければ、最後までお付き合いいただけると幸いだ。

 2024.4.29
 坂岡 優

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