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ジョアン・ジルベルトという人

僕の人生に間違いなく影響を与えた人です。
初日の11/4(土)東京国際フォーラム、僕はその最前列にいました。
3回目の来日で、「最後の奇跡」と銘打たれた今回のツアー。
きっと年齢的にも、日本で最後のコンサートだと思います。
ライブって、自分が演奏する分には全然問題ないんですが、
実はちょっぴり億劫なんですよ。
知人に会ってしまったり、周りの会話や雑音が耳に入ってしまったりして…。
だから、ライブ盤を家で一人で聴くのが好き、なんて公言しています(笑)。
ただ、今回は違いました。
ジョアンと僕の間の空間には、もう何もありません。
そして、信じられないことが起こりました。
僕とジョアンは目で会話してしまったのです(おいおい、笑)
彼こそが、ボサノバの神様、ボッサそのもの。

===

東京国際フォーラムの1列目32番。
センターよりも、一つだけ下手よりの席だ。
ヤバイな、って僕は心の中で呟いていた。
だってジョアンは右利きだから、ギター弾きは正面より右に体が向くんだ。
色んな人が、“ジョアンが自分の為に歌ってくれているような”
と感想を述べているけれども、今回は僕が完全にそれだ。
体の向きから何まで、もうシチュエーションは最高な訳である。

開演時間を過ぎても、ジョアンはまだ会場入りしていない。
アーティストの到着が遅れています、的なアナウンスが場内に流れる。
お客さんは慣れたもので、あたたかい笑いが起こる。
僕は中止になってしまわないかと、冷や冷やもんである。

当然、開始まで時間が出来たということなので、飲み物を買いにロビーへ。
すると突然、“あれっ、山崎さん、どうして?”と知らない女性に話しかけられた。
人間というのは不思議なもので、僕はほんの一瞬だけではあるけれども、
山崎さんとして人生を過ごしてきたかのような錯覚に陥った。
単純には人違いだったんだけれど、
そんなことで揺らぐ“中井さんの人生”って薄いなぁ、とつくづく考えては悲しくなってしまう。

ホットコーヒーを飲んでいると、発見してしまった。
やはり、知っている人に会ってしまったのだ。
相手は気が付いていないから、こちらも気が付かなかったことにすればいいのだけれど、
それでは何か自分の中に敗北感を感じる、そんな損な性質(たち)なのだ。
“どうも、仁さん、こんにちは。”
二人、しばらく沈黙。
ひ、人違いだった!
顔から火が出るくらい恥ずかしい、とはこのことだな、うん。
ま、後で本当に仁さんという人に会って挨拶もしたので、ご心配なく。

中原仁さんは日本とブラジルを繋ぐ橋のような人物だ。
ブラジル音楽ファンなら誰もが目にしたことがある名前だろう。
僕の青春は、ピーター・バラカンさんやチチ松村さん、そして彼の文章に影響された。
尊敬すべき対象の大人、そんな感じの人。
大阪弁で言うと“エエもんの大人”である。
ご本人を目の前にすると、未だに緊張して上手く喋れないけれども。

アーティストがホテルを出発しました、というアナウンスに場内は盛り上がる。
そこで初めて、舞台にマイクやイスがセッティングされ始める。
そう、リハーサルやサウンドチェックもないのだ。
もう何回も、この同じ会場で演奏しているから問題はないけれど。

暗転。
舞台中央に蒼白いスポット。
おもむろに、あまりにも自然に、ジョアンは現れた。
イスに座り、ギターを構えて、こう呟いた。

「コンバンハ…、ゴメンナサイ。」

あぁ、ジョアンが謝った~っ!!!
待たせてしまってゴメンナサイ、ということなのだろう。
そこからはまるで、幻覚でも見ているかのような絵画的な演奏が、
枯渇することのない湧き水の如く、会場を満たしてゆく。
ジョアンの瑞々しい音符たちに、5000人が水没してしまったのだ。

具体的に言うと、ジョアン・ジルベルトの方法論というのは、
弾かなくても聴こえている音、聴こえるであろう音を最小限に押さえるものだ。
骨格や基礎になる部分をomit(省く)していく作業だ。
引き算の美学とでもいう感じかな。

少し専門的に書かせてもらう。
それは、なるべくルート音を避けて、6弦でベース音(サンバでいうスルドの感じ)
を弾こうとする傾向に読み取れる。
それは、トップノートのテンションを、管や弦のラインのように動かすことで、
オーケストレーションを再現する意識に読み取れる。
そしてそれは、サンバ・カンサォンをミニマムに表現しようとするものに他ならない。
その証拠に、歌のストレートメロディーは殆んどフェイクしない。
昔の流行歌や伝統的なメロディーに敬意を表した上の解釈なんだ。

多人数で演奏されることが多く、派手で賑やかな印象のサンバを、
ギターと歌という最小限で表現するジョアンの奏法は、あまりにも知的で芸術的だ。
例えば、これは箱庭や盆栽や茶道や落語etcにも通じるかもしれない。
ミニマムに表現することで、実際以上の美を凝縮して伝えることが出来るし、
背景も役者も小道具もなしで、まるで映画のように伝えることも出来る。
もちろん、受け手がその“イメージの共有”を出来ればの話だけれども。

昔のダウンタウンの漫才のネタで、“カモシカのような足って言うけど、それも言うなら、
カモシカの足のような足やろう“って松本が指摘する場面があった。
一流アスリートの太ももに、カモシカの顔面をイメージ出来た人だけが笑えるという、
いわゆるシュールな笑いなんだけれども、ジョアンもこういうことなんだ、と思う。

ジョアン・ジルベルトのオリジナル曲というのは、実は少ない。
それはジョアンが、周知の曲をまったく新しい形で聴かせられる、その天才だからだ。
スティービー・ワンダーやジョン・レノンが天才というのとは違う。
洗練されたメロディーを作曲したり、説得力のある言葉を綴る天才ではない。
その卓越した比類なきギター奏法と、恐ろしく音程のよい歌唱にジョアンの魅力はある。

ジョアンが同じ歌を何コーラスも繰り返す時、毎コーラス違う色彩で仕上げる。
その一曲中のグラデーションの美しさは、聴き手が原曲を熟知している程に愉しめる。
このコラムを書きながら僕は、ジョアンはライブが一番良い、という結論に達した。
それは彼が演奏家として天才だからに他ならない。

もう何曲演奏してくれたのだろう。
曲が終わり、ジョアンが立ち上がってお辞儀をする。
頭を上げた瞬間、ジョアンと僕の目が合った。
一瞬の間に、え、あれ、君はもしかすると?みたいな空気が流れた気がした。
ひ、人違いだった?!
そんな訳はないやろうけど(笑)

#なごみの手帖  [ 2006年11月4日(土) ]

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