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ずっとそこにいたのだな

むかし旅行で、東欧モンテネグロにあるコトルという町を訪れたときのこと。

広場へ出ると、たくさんの野良ネコたちが石畳の上にあちこち寝そべって、思い思いにくつろいでいる姿があった。
人の往来などまったく気にもとめない様子で、力の抜けた表情をして転がっている。路地のわきを見れば、転がり疲れたのか日陰に座ってぼうっとしているネコもいる。
道ゆく人々もそれをなんとも思っていないようだ。落ちているネコを踏まないように器用に避けながら、こつこつと通りを歩いていく。
この町では、それが日常のようだった。

コトルは、アドリア海の深い入り江のほとりに位置する小さな港町だ。陸側の三方は山と城壁に囲まれているので、難攻不落の要塞都市と行った様相を呈している。
外界から隔たれたコトルにネコがやってきたのは、中世のペスト大流行の時代らしい。ペスト菌はネズミを宿主として拡散するので、そのネズミを駆逐してくれるネコは感染症をくいとめる救世主として迎えられた。この頃から今に至るまで、ネコは町の守り神的な存在として大切にされてきたのだそうだ。

なるほどそうなると、まるで緊張感のないネコたちのだらけっぷりにも納得である。彼らは700年にも渡って、コトルというせまい城壁の中で、人々からご飯を与えられ世話してもらうことで暮らしてきた。
広場にあふれるネコはみんな、この町の飼いネコというわけだ。


しゃがみこんでネコを眺めているうちに、私は不思議な感覚を覚えた。
「このネコたちは、今までもずっとそこにいたのだな」と思った。
そのあたり前の事実が、胸にじんわりと浸透していく感じがした。

私が気づいていなかっただけで、ここにはたくさんの時間の流れの中に連綿と続く生活があったのだ。
私がかつて、小学校のクラス替えに緊張したり、大学での一人暮らしに胸を高鳴らせたり、社会人生活の過酷さに打ちのめされたりしている、そのどの瞬間にもコトルの日常は動いていた。
そこにはきっと今と同じように、だらだらとネコが転がっている光景があった。あるいは私の知らない悲劇もあったのかもしれない。
私がたまたまこの場所へやってきたから、その営みを汲みとれる接点ができた。

この町を一度も訪れないまま、いや町の名前すら知らないまま人生を終える可能性だって全然あったはずだ。このネコたちが生きる世界と私の生きる世界が永遠に交わらなくても不思議じゃない。
そうなれば私にとって、彼らの世界などはじめから存在しなかったのと同じことだ。

逆もしかりである。
このネコたちにとっての世界は、コトルの城壁の内側に閉じている。私が暮らす極東の小さな島国の出来事など関係がない。そんなものは存在しない。
私がこれまでの半生で味わってきた数々の喜びや苦しみがどんなものであったか、いま私を悩ませている葛藤や不安がどれほどのものか、必死に熱弁したところでネコには届かない。

世界は一つといえど、一方で私たちは、思った以上にせまい個々の世界に隔絶されている。
同じ国、同じ町の中ですらそうだ。普段の通勤路を少しそれた一画にも、死ぬまで関わることのないはずの世界があるのだ。
誰かの感情の奔流や、そこから表出した行動も、彼の影響の範囲内でしか意味をもたない。ちょっと隣の世界へ行けば、まるごと存在しなかったことになってしまう。

それはむなしいことかもしれないけれど、私はなんだか肩の荷がおりたような気がした。だって自分の一挙手一投足が世界に意味を与えてしまうだなんて、窮屈で仕方がないんだから。

なんだ、自分は世界の主人公じゃなかったのか。
いやそうだよな。ああ、よかった。

ひとつ救いを得たような気持ちで、昨日まで存在していなかった町に私はしゃがみこんでいた。
帰国したらまた、私は私の世界と、無数の知らない世界との境界で生きるのだ。どんと来い、人生。

ネコは全部どうでもよさそうに目を細めていた。

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