幸せでありますように
拝啓
突然お手紙を差し上げる失礼をお許しください。あなたに伝えたい言葉が募って止まらなくなってしまったのです。
あなたに出会ったのは、桜が散り始めた頃でした。花を寿命、風を時間に見立てた人が、花を散らす風を“春泥棒”と書いていたように覚えています。時が流れて花が終わるのを命に喩えているんだと。
あぁ、すみません。話が逸れてしまいました。
そう、いちばん最初の話をしていたのでしたよね。私は一冊の本を探していました。今は手放してしまった本だったのですが、どうしても読み直したくて。
そしてあなたも同じ本を探していたようでした。大きな本屋さんの片隅に二人、いつの間にか肩を寄せて一つの棚をじっと見つめていました。
足元より少し上にあったお目当ての本を手に取ろうとして、指先が人の肌に触れました。紙の手触りではなかったから、きっとあなたの指先だったのでしょう。
「あ」と呟いた声が耳に響きました。低くて心地良い音でした。もう少しこの声を聞きたいと願ってしまった。だから「すみません」とその後に続いた声にも聞き入ってしまって。ちゃんと返事もしなくてごめんなさい。
まさか話しかけられるとは思っていなかったから、「この本、難しいですかね」と訊かれたのには本当に驚きました。確かに少し難しい本だったけれど、得るものの多い本だったから「確かに難しいけれど、でも良い本ですよ」と答えたんです。
「あぁ、そうなんですか。俺、あんま本読まないから分かんなくて」
あなたはそう言いながら立ち上がりました。話す間ずっとしゃがみ込んでいたから気づかなかったのですが、思ったより背の高い人だったのですね。
「本、好きなんですか」
私の好きな声でそう訊いてくださったのが嬉しかったんです。それはもう、忘れられなくなってしまうほどに。
「はい、とても」
「普段はどんな本を?」
「えっと、小説だったりエッセイだったり。表紙を眺めていて面白そうなものを」
本棚に目を移して、すごいなぁ、とあなたは呟きました。本棚の上にある照明の光が、あなたの綺麗な横顔を照らしていました。
ここまで書いてしまえば否応なく分かってしまうかもしれません。
いきなりこんな事を言われて困ってしまうでしょう。それでもやっぱり伝えたいのです。我が儘をどうかお許しください。
あなたが好きです。これまで一目惚れなんてしたことがなかったのにあの日を境にしてすっかり変わってしまいました。
もう会わないであろう人を好きになるなんて、馬鹿げているとあなたは笑うでしょうか。それで笑顔になってもらえるならそれでいいのです。笑って、おかしな人がいるんだなぁと思ってくれたらそれでいい。それで肩の力をふっと抜けるのなら、もうそれで十分です。
想いが届いてほしいなどと大それたことは望みません。ただ、あなたがどこかで笑っていてくれたら、それだけでいいのです。結ばれたいなどと願ってしまっては、あまりに分別がありませんから。
だからこの手紙も、あなたに届くことはないでしょう。宛名も差出人も書いていないのです。届くわけもありません。
どうかあなたが幸せでありますように。少しでも笑顔でいられますように。
敬具
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