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野良犬の私たち

深夜2時、親友と話していて、自分を野良犬だと喩えたことに我ながら納得してしまった。温かい手を求めて彷徨う野良犬。

いつからこうなったのか分からない。気がつくと私たちはハードモードの人生に放り込まれていた。病気、家庭環境、人間関係、エトセトラエトセトラ。2人とも口を揃えて言うのは“生き地獄”だということ。
どれか1つなら何とか耐えられたのかもしれない。運悪く、私たちは同時に複数を背負ってしまった。自分1人だけでやり過ごすことは出来ず、だからといって私も、親友も、互いを泥沼から引き上げられるほどの力を持っていなかった。あるのは両方が沈まないでいられる最低限の抵抗力だけだった。

私たちは他の人に助けを求めた。何度も、何度も。虚しくなるから数えることもいつからかやめていた。そして「助けてください」と伸ばした手を毎回振り払われた。
誰一人として例外なく、「頼っていいよ」「何でも話してね」と言う人ですら、心の一番脆い部分を晒すと容赦なくナイフを突き立てた。
『この人なら大丈夫かもしれない』を覆される日々が続くうち、手を伸ばすことが怖くなった。裏切られたくないから信じることをやめようとした。それでもやめられなかった。次から次へと溢れる感情は、飲み下すにはあまりに重すぎるから。だから何回も信じては裏切られることを繰り返してしまう。
表面だけなら好いてくれる人もたまにはいる。けれどそれも“表面だけ”であって、決して内面に渦巻く苦痛を引き受けてはくれない。いつも告げられるのは「重い」の2文字。

「自分が動かないと何も変わらないよ」と彼らは言う。「やってみないと分からないじゃない」と滔々と語る。
私たちが今までどれだけやってきたと思っているのだろう。ここまで何もせずに助けを求めているとでも思っているのだろうか。幾度となく信頼を覆されて、それでも『この人なら』と信じることをやめられないのに。


私たちは野良犬だ。『次こそ温かい手で撫でてもらえるかもしれない』『今度の人は、柔らかいベッドと綺麗な水と十分なごはんのどれか一つだけでも用意してくれるかもしれない』と信じながら、冷たい雨の中を彷徨う野良犬だ。信じたいと思った人に差し出した頭を、毎回のように叩かれて追い払われる。稀に雨宿りのできる軒下があっても、そこに留まって生きてはいられないから、いつかその場所を離れて歩き続ける。
1匹で歩いていたら、いつの間にか隣で一緒に歩く親友がいた。ひどく叩かれて蹲ったとき、水溜りで凍えないように身を寄せてくれた。今もそれは変わらず、冷え切った体に微かに残る体温で意識を保っている。

いつか拾ってくれる人はいるのだろうか。「大丈夫だよ」と声をかけ、今まで数えきれないほど叩かれた頭を撫でて、雨に晒された毛皮を拭いてくれる人。「もう安心していいんだよ」と優しい声で笑って、それぞれに唯一の名前を与え、冷たい雨が降る外へ追い出さない人。

私たちはずっと希っている。いつか野良犬の私たちに名前がつけられて、飼い犬になれる日が来ることを。

そんな日を待ち続けて、今日もまた冷たい雨の中で頭を晒す。今度こそはと祈りながら。

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