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ハマキ・イン・ザ・ダーク。|キューバ56日ひとり旅 #10

キューバ滞在もひと月ばかり過ぎると、食事や買物、宿泊、移動に関するコミュニケーションはスムーズになってきた。「革命広場までのタクシー代はいくらですか?」「それは高い。1CUCなら乗る」「お腹を下すので、朝食のフルーツは少なめに(フルーツが豊富なこの国で幾度となく、痛い目にあった)」など質問や交渉等がメインだ。

どこかのツアーに参加しているわけではない、私のノープラン旅は選択の連続である。いや、そもそも人生そのものが選択の連続であるのだが、旅をしていると「Si(はい)」と「No(いいえ)」という異国の言語を一日に何度も発するので、選択しているということを強く意識せざるを得ない。

基本的に「No」と答えると、そこでコミュニケーションは終了する(値引き交渉中は除く)が、「Si」といえば、モノを買ったり、次の行き先が決まったりと、展開がある。

未知の体験に飢えている私は、それが明らかに必要でないモノやコトでない限り、街でなにか誘いをかけられたときは極力「Si」と答えるようにしている。いざとなったら、最後は全力で逃げればいいのだから。

行程も折り返しに差しかかり、オルギンという都市に滞在しているときのこと。街歩きばかりを繰り返す一日の過ごし方をいったん小休止し、腰を下ろして文化をたしなむ時間を取り入れることにした。

食事やコーヒー、お酒については一定の体験をし、音楽も味わいつつあった私に残されていたもの。それは、この国の代名詞であり、主要産業の「葉巻」だ。

キューバの都市というのはどこも似た構成で、大きな公園や広場を中心として商店や飲食店、ホテル等が軒を連ねている。そして、その中に時折、観光客向けで公式の葉巻ショップがある。

公式の、と書いたのは、中心を外れた通りで各種ブランド葉巻を個人が売っていることもあるのだが、品質が保証されないため、外国人が手を出すことは推奨されていない。

またサンドイッチやコーヒーを売るカフェテリアでも公式的に葉巻を買うことができるのだが、ここで買えるのは1本約5円の庶民向けのもので、1種類しかない。当然、葉の品質はブランド品に劣るが、これはこれで庶民の生活を味わうという角度で楽しめるだろう。

前置きが長くなったが、オルギンの中心地にある公式の葉巻ショップを訪れてみた。マグカップの把手が外れていたり、天板のガラスにヒビの入ったテーブルを堂々と売ったりしている何かと雑な他の商店と異なり、いかにも高級という雰囲気だ。店員は流暢な英語で応対する。

曇りのないショーケースには商品がゆとりをもって美しく並べられている。タバコ職人に人気のあった小説が由来の「モンテ・クリスト」や、先住民が吸っていた植物の名を冠した「コイーバ」、ロミオとジュリエットがモチーフの「ロメオ・イ・フリエタ」など。ラベルやパッケージのデザインを見ているだけでも楽しい。太さや長さ、葉の質、手作りか機械製か等によって値段は異なるが、安いのは1本150円くらいから、高いのは1,000円近くする。

しかし、価値も吸い方さえも知らない私は、どれから手をつけていいのか分からず、ただ眺めるしかなかった。はじめての葉巻品定めに10数分で疲れてしまったので、試飲用の1本を選ぶ気すら失せてしまい、一旦この日は店をあとにすることにした。

店を出て、人の流れに従い歩き始める。突如、40代くらいの男が「葉巻が欲しいのか?」とカタコトの英語で話しかけてきた。葉巻ショップの前で観光客を待ち構えているなんて明らかに怪しい。断ろうかと一瞬思ったが、もしかしたら葉巻について色々学べるかもしれない、そしてなにより未知なる体験のチャンスだと考え直し、「うん。興味はあるよ」と答えた。

すると、彼は近くにいた別の男に声をかける。別の男は、すぐに私の方を向くと「こんにちは。私は彼の兄弟です。どこから来たんですか?」と淀みのない英語で話しかけてきた。見た目の年齢はふたりとも同じくらいなので、どちらが兄かは分からない。とにかく英語のできるブラザーにバトンタッチしたというわけだ。

男の名はジョニー。普段はツアーガイドを生業としているらしい。怪しいものではないよ、という様子で、電話番号とメールアドレスの書かれた名刺を差し出してきた。

「ショップで売っている葉巻は高いだろう。クレイジーな価格だ。わたしたちなら半額以下であなたに売ってあげられる」。そうジョニーは言うと、スマホのフォトアルバムを開き、モンテ・クリストやコイーバなどの葉巻の写真をいくつも見せてくれた。最後のスクロールで、娘の写真だろうか、小さな女の子の写真がチラリと見えたのには少し和んだ。

ジョニーの丁寧な話し方と、英語でちゃんとコミュニケーションが取れることに一定の安堵を得たので、「手持ちがなく今は買えないけれど、ぜひ見せてくれ」と言い、葉巻を置いているという建物へともに向かうことにした。

ジョニーいわく、歩いて5分程度のところにあるらしい。キューバ人の5分は、5分ではなく15〜60分ほどの幅があることをこれまで何度も味わっているので、期待はしない。また、行き先があまりにも中心から外れそうになったり、港の倉庫的な場所だったりしたら、走り去る心構えをした。

結果は、予想外にもぴったり5分で目的地に到着した。馴染みの地での移動時間はさすがに誤らないかと思いつつも少し驚いた。建物自体はふつうの住宅街にある、両隣の家と壁が密着した一軒。面した通りの人の行き交いも少なくない。こんなところで普段から闇取引をしていて逆に大丈夫なのか、と心配になるほどだ。

分厚く縦に長い木の扉をジョニーが開け、ブラザー(ジョニーではない方の兄弟は以下、ブラザー)とともに続いて入ると、先客がいた。見たところヨーロッパからの観光客だ。ジョニー兄弟とは別の男とちょうど取引を済ませ、退出するところだった。ジョニーが耳打ちで教えてくれたところによると、免税範囲である2ケース合計50本の葉巻を購入したらしい。さあ、次のカモは東洋人だ。

先客が出ると、ジョニーは「これね」と玄関を入ってすぐ左手に積み重ねられた葉巻のケースを取り出した。もっと建物の奥とか、個室でやらなくていいのかよと、これまた心配になった。もしかしたら、色々と仕切りがゆるいこの国だから、周囲もこの商売については暗黙のうちに認めているのかもしれない。

これまでのところ“闇”を感じさせてくれる要素はない。唯一、机に置いてある照明以外に灯りがないことで、薄暗い室内が若干の雰囲気を醸していたくらいだ。

ジョニーが取り出したのは、ロメオ・イ・フリエタとコイーバの各25本入りケース。同じものを公式ショップで買った場合、合計で約4万円するそうだ。これをセットにして「100CUC(約1万円)でどうだろうか」と75%オフの値を提示してきた。本物でかつ品質も保たれているのであれば、かなりのお買い得品だ。しかし、葉巻処女である私は当然、真贋の区別など付きようもない。とりあえず考えるふりをしながら、葉巻を触ったり、匂いを嗅いだりする。

免税範囲のHPゲージを、葉巻デビューを思い立った初日にいきなり使い果たすのはもったいないという結論に至り、「数本なら買うよ」という答えを示した。しかし、帰ってきた返事は「No」。バラ売りはできないとのことだ。

私の表情から購買意欲が失せたことを察したブラザーは、「80CUC」と値下げする。それでも買う気は起きない。売買よりもむしろ、彼らが割安でブランド葉巻を売ることができることの方に関心が向いてきたので、「なぜ君たちは葉巻を安く売れるんだい?どうやって仕入れているの?」と投げかけた。この質問をしたときは、価格交渉を横道に逸らして痛いところを突いたのでは、とちょっと得意気になったものである。

しかし、そんな質問は彼らにとってはFAQらしい。「タバコ工場で働く友人たちから仕入れているんだ。彼らの給料は低い。しかし、ショップの店員ときたら、いい給料をもらっている。それで(ショップの葉巻は)あんなに高い値段になっているんだよ」と即答された。真実かどうかはわからないが、説得力のある答えだった。

もうちょっと様子を見たかったので今度は「試しに1本吸ってみたいのだが」とリクエスト。すると、商談中の2ケースに比べて半分ほどの大きさの木箱をジョニーが持ってきた。「小さくて細いけど、これもコイーバ。25本入り1ケース、値段は30CUC。太いやつに比べて香りは劣る。1本吸ったら、買わなきゃいけないけど、どう?」

うーんと唸っていると、なぜか調子のいいブラザーは、先程の2ケースの上に、この小コイーバを載せて、「80CUC!」と言うではないか。ジョニーも、まあいいかという表情をする。え、それで利益出るの、と今日3度目の心配をした。ジョニーは続けて「機内預け荷物に大きいやつ2つを入れて、持ち込み荷物に小さい方を入れれば、税関はスルーだ」と、通用するかどうか分からぬ裏技を教えてくれた。

この時点で頭の中の真偽ゲージは、【真□□□■■■■■■■偽】となっている。けれども、ここまで来たらホンモノかどうかは一旦脇において、1箱買って1本吸ってみようという気になった。ニセモノでも体験料たかだか3,000円だ。

「小さいのをとりあえず買うよ。吸いながら考えて、買う気になれば残りの2つも」と最終結論を示した。

支払いを済ませると、「今すぐ吸うかい?」とジョニーが1本差し出す。「ぜひ。でも吸い方が分からないし、ライターを持ってないんだ」と答える。ジョニーが「ちょっと待ってて」と言い、スペイン語で数語つぶやくと、ブラザーが建物の奥からライターを探し出してきてくれた。なぜそれは入口付近に置いていない。

ブラザーは「見ていてね」という目配せを私に向けると、ジョニーから葉巻を受け取る。葉の断面とは逆側の丸みを帯びたほうを口に近づけたかと思うと、勢いよく5ミリほど噛み千切った。専用カッターかハサミを使うという予想が裏切られ、思わず「ワオ……」と口からこぼれる。ジョニーは「カッターは要らない。キューバ人はこうやってやるんだよ」と教えてくれた。

ブラザーは私の驚きを気にすることなく、露わになった切り口をそのまま咥える。ライターを点火し、葉巻に近づける。炎の先端が断面に触れたところで、ライターを持つ手をゆっくり小さく、手前から奥に、奥から手前に回し始めた。同時に、スッ、スッ、スッとこまめに息を吸う。すると、断面とブラザーの口から白い煙が上がり始めた。

ブラザーが断面を見て燻し具合を確認すると、納得したようでそのまま私に渡してくれた。これはブラザーとの完全な間接キスではないか。しかし、ここはキューバ。タバコや酒の回し呑みなんて当たり前だろうと自分を戒め、そのまま咥える。

初めのひと吸い。想像以上に煙が口に入ってきて、味わう余裕もなくすぐに吐き出してしまった。それでも、2年前までは喫煙者だったこともあり、何度か吸ううちに煙の調整には慣れてきた。ただ味はよく分からない。

「残りはゆっくり外で吸うよ」とジョニーに告げると、急いで木箱をスペイン語の地元紙に包み、半透明のビニール袋に入れてくれた。「外ではこれを開けないで欲しい」とのことだ。茶色の紙袋に入った拳銃を受け渡しする洋画のワン・シーンが脳内再生され、これこれ闇取引っぽい、とテンションが上がった。

建物を出るとジョニーも一緒についてきた。私の中で商談は終了していたが、相手はそうではなかったらしい。ジョニーは「広場のベンチで吸おう。吸い終わったら、君の宿泊先にこの葉巻を置いて、お金とバッグを持ってこよう」と言う。なるほど、あの2ケースもどうしても買ってほしいのだな。

さらさらその気はないので、「明日また来るから」と返す。「明日から家族でビーチに行くんだ。今日じゃなきゃダメだ」とジョニー。ちなみに私も翌日は別の都市に朝から移動のため、ここにはいない。

「わかった。でもまだ買うと決めてない。ゆっくりと一服しながら考えたい。しかも、朝から何も食べておらず腹が減っている。ランチ後にまた会おう」と嘘をつく(空腹だけが本当)。ジョニーはうなずき、「タバコショップ前辺りにいるから」と素直に応じた。

一人になって少し気楽になる。広場のベンチに腰を下ろして、葉巻を吸い込む。かすかに味はするが、煙は立たない。ものの数分だったが、吸うのを中断したために、火が絶えてしまっていた。手元にライターやマッチはない。

一刻でも早く、このはじめての一本を味わい尽くしたかったので、すぐに宿泊先へ足を向けた。広場からほど近いところにあるので、念のためジョニー兄弟の姿がないかを確認しつつ、遠回りをした。

宿に着いた。2階の部屋だが人目を忍んでカーテンを閉める。キッチンに置いてあるガスコンロ着火用のライターを手に取り、リビングに行く。ソファーに前のめりに腰掛ける。葉巻を口に固定し、ブラザーのお手本を頭に浮かべつつ、小刻みに息を吸いながらライターを回した。

最初は焦げた味がしたが、吸い込んだときに断面の縁全体が仄かに赤く灯るようになると、はじめて、熟成された葉の香りが口の中に広がった。煙を食むがごとくゆっくり咀嚼し、舌の上で転がす。呼吸が辛くなる前に、ふぅっと長く吐き出す。そうして白い煙が己の息から途切れたとき、ようやく葉巻を一服できた心地がした。

ソファーに深く腰をかけ直し、肘を置きながら、一定のリズムで吸う。ペースがつかめてきた。徐々に葉巻のもたらす何某かの成分と、本場で葉巻デビューができたことによる高揚感により、ふわふわと浮かぶような感覚になった。

何分経ったのだろうか。しばらくしてから、口から葉巻を離すと、右手の人差し指と中指の間に熱を感じるようになってきた。だいぶ葉巻が短くなっている。体全体の温度も上がってきて、頭がクラクラしはじめた。どうやら酔ってきたらしい。

このまま吸い続けると、気持ち悪くなる一方な気がしたので、灰皿の凹みにそっと葉巻を置いた。そのまま寝室に行き、水を一口飲んでベッドに転がる。両手を組んで胸の上に置くと、ドクドクと激しい鼓動が伝わってきた。

葉巻は少しずつ休み休み楽しむものだと反省しながら、深呼吸を繰り返していると、やがて眠りに落ちた。朝から何も食べていなかった分、余計に酔いの回りも早かったのだろう。

目が覚めると、日はとうに暮れていた。酔いはすっかり抜けているが、腹が減って死にそうだ。口の中に残り香を感じつつ、非常食用のナッツをザックから取り出し、10粒頬張る。これで30分はしのげる。

リビングに戻り、ソファーに座る。改めて、今後はいっぺんに葉巻を吸い切らないぞと誓う。ジョニー兄弟、今も広場の周りで待っているのかなあと思いつつ、“お試し”購入した木箱を手にとった。

上質な葉巻は、良い状態で保つために木箱に入れるとは聞いていたが、思ったよりもちゃちな作りだ。ホンモノも同じ箱なのだろうか。

なんとなくすべての葉巻を箱から取り出し、机の上に並べてみた。自ずと数え始める。1、2、3、4……20、21、22、23。23? あれ?

今度は箱に戻しながら、数えてみる。1、2、3、4……20、21、22、23。やはり23本だ。唯一吸った1本と合わせて24本。

まんまとジョニー兄弟に一本取られた。


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