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革命記念日とおっさんの汗。|キューバ56日ひとり旅 #8

7月26日は革命記念日。

1953年のこの日、27歳のフィデル・カストロ率いる若者たち百数十名が、モンカダ兵営を襲撃した。この兵営には当時、バティスタ政権の兵2,000名がいた。バティスタは、アメリカ資本を背景に私腹を肥やし、キューバ国民を貧困に追いやっていた独裁者である。

襲撃は失敗に終わり、逮捕後の拷問や虐殺を含め、反乱軍の若者は半数が亡くなった。カストロ自身も逮捕されたが、弁護士としての一面を持っていた彼は、その後の弁論で世論を味方につけて釈放される。このときの弁論は「歴史は私に無罪を宣告するだろう」というタイトルで流布され、その後の革命運動の指針となった。

釈放後メキシコに亡命し、チェ・ゲバラらと出会う。革命軍「M-26-7(7月26日運動)」を結成し、1956年12月にグランマ号でキューバ東部に上陸。幾多のゲリラ戦を展開し、勢力を拡大。1959年1月1日、ついに革命軍が勝利を果たした。

つまり7月26日は、革命運動最初の蜂起日であり、革命が成された日ではない。日本語では「革命記念日」と訳されているがこれは少々誤解を招くだろう。正式名称の「Día de La Rebeldía Nacional」を直訳すれば「国家的反旗翻しの日」だ。「反乱記念日」とでも訳したほうがいい。

ちなみに1月1日の記念日「Triuhno de La Revolución」は「解放記念日」と訳されている。こちらは的を射ているが、直訳的に「革命勝利記念日」とでもしたほうが分かりやすいだろう。

まあ妙な提案をしたところでどうしようもない。日本でも認識している人は少ないし、そもそも日本語訳がどうこうだなんていうのは、キューバ人にとってまったく関するところではない。大事なのは、7月26日を忘れないこと、そして祝うことである。

7月26日当日、私はシエンフエゴス(革命軍の重要人物、カミロ・シエンフエゴスに由来)というキューバ中部の港湾都市にいた。ほんとうはモンカダ兵営のあったサンティアゴ・デ・クーバにいれば、最大の盛り上がりを体感できたであろう。しかし、一般国民がこの日をどう迎えるのかを知るには、ヨソにいるほうがより分かるかもしれないと思い、シエンフエゴスにいることを選択した。

サンティアゴ・デ・クーバではない別の街といえども、観光客はそれなりに来るところだ。ひとまず人の多く集まる中心地に行けば、なにかしらのイベントにめぐり合えるだろう。そう期待して、朝から外に繰り出した。

宿から目的地までは徒歩15分の一本道。道中のお店は普段よりシャッターを下ろしているところが多い。人通りも心なしか閑散としている。きっと皆、朝早くからイベントに参加しているのだろう。期待を高めつつ街の中心である広場に足を踏み入れた。

しかし、目の前に広がっていたのは、人だかりでなく、ただの休日の静かな公園。木陰のベンチで地元民が新聞を広げたり、タバコ吹かせながらスマホをいじったりしている。キューバのイベントごとには欠かせない音楽も聞こえてこない。

市庁舎の外壁に、背景を赤と黒で二分し、7月26日を示す「26 JULIO」と白字で書かれた大きな旗が、ときおりバタバタと風に揺らめいている音がさみしく響くだけだった。

はやりサンティアゴに皆出向いているのか。

期待はずれの結果に肩を落とし、それからは適当に街をぶらついた。出番の少ないカメラが重たく感じてきたころ、お腹も空いてきたので、食堂に寄ってから宿に帰ることにした。

その食堂は前日に見つけたお気に入り。中心街から6、7ブロック離れた公園のそばにある。旅行客の姿は一切なく、地元の人たちしかいない。100円ちょっとで、肉と黒豆ご飯と少しの野菜をお腹いっぱい食べることができる。

今日は豚か鶏か、それとも魚か。昼食を楽しむことに頭を切り替え、食堂のあるブロックに足を運んだ。

店を目指して日陰をなぞって歩いていると、食堂の向かいにある公園の、さらに奥の方から、音楽が聞こえてくることに気がついた。視界に入る場所ではない離れたところからだけれど、かなりの音量であることがわかる。

若者たちが自分の好きな音楽をかけているにしては音が大き過ぎるし、曲調も伝統的な雰囲気だ。そして、空が振動しているこの感じ、どこか懐かしい。

そのとき一瞬にして、子ども時代のワンシーンが脳内に浮かび上がった。

家から歩いて駅前の大通りに向かう。目指すは夏祭りの会場。彼方の空から響いてくる祭囃子が徐々に大きくなる。胸が高鳴る。サンダルの緒をはさむ親指と人差し指に自然と力が入り、早足になる……

あのときの空と同じだ。

間違いない、あそこで祭りをやっている。空腹が吹き飛び、店に向かう体を90度左に方向転換させ、あのときよりも少し大きな歩幅で、音の鳴る方へ駆けていった。

4車線の大きな通りにたどり着くと、爆音の震源地に人だかりができ、1車線を封じていた。チュロスやアイス、ビール、サンドイッチなどを売る自転車移動式の露店も立ち並んでいる。まさに祭りだ。

人混みをかき分け、中央に向かっていく。そこに私以外の旅行者の姿はない。いつも通りで見かけていた、一般市民たちが普段の格好で踊っている。飲んでいる。抱き合っている。

途中、黒人セニョリータが左手をそっとつかんで微笑んできた。細身のきれいな人だった。しかし、今はそれよりもバンドマンたちを間近で見たかったのでやさしく振りほどいた。というのは強がりで、唐突な誘いに驚き、それ以上踏み込むことへ臆病になってしまったのだ。もしかしたら、「一緒に踊りましょう」という誘いだったかもしれない。

音の震源にやって来た。ヴォーカル、バイオリン、フルート、キーボード、ベース、ドラムス、コンガの大所帯バンドが壇上で演奏している。しかもヴォーカルとバイオリンは二人ずついる。巨大なスピーカーで増幅させられた爆音は、耳を通り越して骨の髄から全身を振動させる。踊らずにはいられないわけだ。

演奏を動画で撮っていると、踊るおっさんが笑顔で私を手招きしているのに気がついた。そろそろ私も踊ってみたいと思っていたので、笑顔で手を挙げて応じ、近くに行った。

どこから来たの? から始まる定番の質疑応答も早々に、一緒に踊り始めた。ビールを入れたペットボトルを片手に踊るおっさんは、すでに汗だくだ。互いの手を取り、腰を近づけ、くねらせあう。なんてことはせずに、隣でときどきアイコンタクトを取り、笑い合いながら楽しく踊った。

曲が終わり次の曲が始まろうとする間、おっさんは握手を求め、手を差し出す。私はそれに力強く応じる。すると、その手を引き、おっさんはハグをしてくる。こちらの国はハグが一般コミュニケーションだ。少々おっさんの汗を気にしつつも応じる。

そこまではよかった。そこまではよかったのだ。

ハグをしたまま、おっさんは今度、なんと、自身の坊主頭を私の坊主頭にこすりつけてきた。な、なんだこの触れ合いは! ハグの延長に「頭のこすりつけ」があるなんて教科書に載ってなかったぞ…… おっさんの頭汗が私の頭皮に刷り込まれていく。ほんの数秒間の出来事だったが、私は断る術もなく、苦笑いに限りなく近い笑顔で応じた。

シラフは冷静に「これはおっさんの汗だよな」と考えるからよくないのかもしれない。ビールで酔っ払ってから来ればよかった(途中おっさんにこのビール飲む、ってペットボトルを差し出されたが、反射的に断った)。

この異文化交流は、その後40分間続いた。演奏の合間はもちろん、曲中のサビ終わりなどにも挟み込まれてきた。なぜか私の手を取り、おっさんが自分の額の汗を拭い、「今日は暑いね」みたいに眉間にシワを寄せることもあった。あっけにとられた。シワを寄せたいのはこちらのほうだ。

おっさんの汗はけっして好きにはなれないが、おっさん自身は楽しげな人で、嫌いではない。なにより演奏や踊ること自体は大変楽しかった。汗の交換、否、供給タイミングが来るときは、「こういうのを味わうために旅をしているんだ」と自分に言い聞かせ、やり過ごした。目の前の階段に座っていた白髪のおばあちゃんが、目尻と頬に幾重ものシワを寄せて私を見守っていたのも、乗り越える力となった。

空腹がよみがえってきたのと、シャワーを浴びたいという念が喉元まで込み上げ、演奏の転換を見計らい、おっさんに別れを告げた。おっさんは、もっと一緒に踊っていたかったというような表情をしてくれた。

帰り道、ふと思った。急だったものセニョリータの誘いは断り、おっさんの誘いには快く応じる自分は、いったいなんなのだろうと。おっさんの汗じゃなくて、セニョリータのそれだったかもしれないのに……

いや、人生に「もしも」はない。


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