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10代最後の夏、私はヒッピー村に滞在した。

「街に戻ったら、きっと”あら、夢でも見ていたのかしら…”と思いますよ」
そう目の前のおじいさんが言うと、
隣にいるおばさんは続けて「きっともう二度と会わないと思う」と、私に言った。
これが最後にかけられた言葉である。

拍子抜けするほどサッパリとした別れだった。私の祖父が電話を切るときに決まって「さようなら」と挨拶をしてくる時のような、あの一方的に一生の別れを告げられているかのような感じがして切なかった。
私は、きっと心のどこかで「またね」「もっといたら良いのに〜」と言われることを期待していたのだ。

だが、彼らは決してそのような社交辞令は言わない。
ただそう感じたから、そう伝えたのだと思う。
冷たくも寂しそうでもなく、和やかな表情だったのを見て、私はそのように感じた。

しかしもう2度と会わないだろうと言われて驚いた、当時19歳の私は咄嗟に
「そ、そんなこと言わないでくださいよ!また来ます!」と必死に答えていた。

しかしそうは言いながらも、
“もう二度と会わない”──その言葉に、実は妙に納得してしまっていた。

私は、彼らにはもしや人々の行く末が見えているのでは、と酔心していた節もあるかもしれない。
それほどまでに、あの夏の10日間は魔法にかけられていたのではないかと思うような、おとぎ話のような、忘れられない時間だったのだ。


日本にヒッピーがいる?

私がそこにたどりついたのはあるインターネットサイトの記事からだった。
どうやら日本のヒッピーといわれる人たちがいるらしいと、当事者ではないと思われるユーザーによるまとめサイトだった。
日本にヒッピーがいる?
私は興奮していた。

前回の記事(UFOを見てフリーターになろうと思ったっておかしいですか?)で書いたように、私は高校三年の冬、UFOを見た。
それからというもの、目には見えない存在へのロマンを抱くようになったのだ。
それと同時に、なぜ私の目の前にUFOは現れたのだろう?ということを知りたいと思うようになっていた。理由が知りたい。もしかしたら自分は特別な存在なのかもしれない…と本気で思い始めていたのかもしれない。

そんなこともあって、私はUFOの話を茶化さずに聞いてくれる人と話してみたいと思うようになった。

そこからなぜ憧れの対象がヒッピーという存在につながったのか、明確には覚えていないが、UFOの話ができる=常識に縛られない=社会に縛られない生き方=ヒッピーと思っていたのであろう。

ちなみに私のヒッピーに対する知識はその時も今もこの程度である。

ヒッピーとはベトナム戦争後に生まれた若者を中心としたカウンターカルチャーで、中にはラッパ型のズボンを履いて花のモチーフのサングラスのようなファッションをしていたり、小さいバスの中で暮らしていたりするラブアンドピースな人たちだ。
私は、ヒッピーと言われた人たちがどんな考えを持ち、活動をし、どんな飯を食い、どんなモーニングルーティーンで生きているか全く知らない。

"日本のヒッピー"とは、一体どんな生活を送っているんだろう……?

そこで、様々なリンク先に飛んでみると、ある場所で滞在体験者の募集があったのを発見した。
募集要項をあえてタウンワーク風に書くなら、

【自給自足生活の体験】◎滞在期間は単発~長期まで自由!◎髪型・服装自由。◎嬉しい食事・寝床付き。♦︎金銭の報酬はありませんが貴重な経験ができます!

……と、いったところだろうか。
当時の私はその時、1人暮らしを始めるための貯金が貯まり、バイトの最終勤務も終え、来月には実家を出ることを決めていた。
そう、今は束の間の休み期間。
つまり絶好のチャンスである。

私は迷わずメールを送っていた。


メール1往復半からの現地集合

応募から採用(?)までは非常にあっさりしていた。

8月○日、△時ごろ□□というバス停まで来てください
と告げられたのみである。

今思えば、バイトの面接もとりあえず行くことぐらいしか分からないものか。履歴書の用意すら必要ないのは初めてだが。
…に、してもあまりにも不安だった。

以前、ある農家さんの家で短期手伝いのアルバイトをしたことがあったが、そこでは仲介業者がいた。アルバイト代の幾分かを手数料としてその仲介業者に渡ってしまうのだが、どんな人がいるか分からないこういった滞在系のお仕事であればいてもらった方が双方安心である。

しかし、そんなものはない。身一つで来たのだ。覚悟を決めろ。言われてもないのに軍手を持参してきただけ私は大丈夫!優秀!!……などと、電車の窓から知らない景色を見つめながら自分を奮い立たせた。

鈍行列車とバスに揺られ約8時間経ったころ、ようやく指定されたバス停に着くことができた。

移動中の車内からも見えていたが、あたりは山に囲まれていた。あるものといえば民家と道路と畑、自動販売機。コンビニはないが、人が暮らしているのが伝わる。
そうかこの辺りで自給自足生活をしているのか…と思った矢先、
目の前に軽トラックが停まった。

軽トラックから顔を出してきたのは、アジア顔の40代か50代かもしかすると60代かの女性だった。

アジア顔の、と言っても日本人のことなのだが思わずアジアという言葉選びになってしまうのは、彼女が日に焼けた褐色肌だったからだろうか。それとも首から下げた勾玉のネックレスやファッションからだろうか。化粧っ気はないが、その何億倍も素敵な笑顔が眩しかった。

こんにちは、と辿々しく挨拶をして助手席に乗り、居住地まで送ってもらうこととなった。
どうやらゴールはここからさらにもう何十分ほど山を登った先にあるらしい。全然ここら辺ではなかった。

笑顔の眩しい彼女は、車内では意外と言葉数が少なかった。

とにかく何かを話さなくては。バイトの面接であればだいたい志望理由を話すのが定石だ。
私は思い切って自分がここへ来た動機の一つであった、
「日本にヒッピーがいるってネットで見てここに辿りついたんです!」と伝えた。
すると彼女は、あーあれかと言うかような反応を示したあと口を開いた。
「私たちは全然そんなのじゃないよ」

あ、あら….?あんまり言わない方が良かった…?

それ以上突っ込んだことが聞けることもなく、程なくして到着した。


いざ、ヒッピー村(仮)へ

到着するとそこは、山の一部を拓いていくつかの建物が点在する状態の居住地だった。なんと言えば良いのか分からないが、自然と人工物がガチ恋距離で共存し合っている。
そして先ほどの集合場所がいかに住みやすい場所か痛感させられた。自動販売機などもってのほか、携帯の電波も3Gを拾うか拾わないかを行き来している。ここでは「自給自足生活」ということだけあって、畑だけでなく住む家も道も全てが手作りなのである。インパクトは十二分にあった。

私を乗せた軽トラックは、母屋と呼ばれる建物の横に駐車された。

降りると、すぐそこで何かの作業中と思われる、アジア顔の60代か70代かの男性がいた。

またもやアジア顔の、と言葉を選んでしまったのだが、もっと端的に言えば白髪まじりでヒゲモジャの仙人かのような雰囲気を纏ったおじいちゃんであった。
その酔拳で闘ったら強そうなおじいちゃんは「どうもどうも」と軽めの挨拶をすると、サッとまた作業へ戻って行ってしまわれた。

あ…….仲良くなれるだろうか……
淡白な態度に私は一抹の不安を感じていた。
私は、歓迎とまではいかなくても興味ぐらいは持たれるものかとばかり思っていたのだ。どうも若者です!どうだ!と慢心もあったかも知れない。

そんな自分に小さく絶望をしていると、白いタオルを頭に巻いたちょび髭のお兄さんがやってきた。次から次へと新キャラ登場である。
こちらはこの居住地のお手伝いである、これから私と同僚になる先輩だ。
30歳まで旅人をし、流れついた今はここで長期滞在を始めたばかりだそうだ。
勾玉おばさんからちょび髭へと新人の爆弾キャッチボールが渡り、今夜からの私の寝床を案内してもらうことになった。

今日から住む家

ちょび髭について行くと、そこは小屋だった。

母屋からは少し離れた場所にある物置の蜘蛛の巣をかき分け、奥の階段を上がり茶室ほどのこじんまりとした引き戸を開けた先にある、屋根裏部屋のような部屋だった。
寝床は、その部屋の中の小上がりで、すでに薄い布団や毛布などの布類が置いてある。
共同生活とは言え、一人部屋。窓ガラスもある、裸電球だが電気もある、ありがたかった。
光が届かない部屋の奥の方で布団や毛布が乱雑に置かれていて毎晩得体の知れないものを想像してしまい怖かったが、
とにかくありがたかった。

さて、荷物を置いてもう一度みんなの集まる母屋へ戻る。
ヒッピーコミューン(仮)の住処、本当の第一歩である。

私は他の人がそうしているように、見様見真似で玄関という名の階段で靴を脱ぎリビングへ上がる。

すると目の前に広がっていた室内は、土で砂砂しくなっている床にソファー、隙間を埋めるかのように「自然療法」「無農薬」「死後の世界」などの単語が目立つ様々なジャンルの本が詰まった本棚やローテーブル、天から吊ってあるドライフラワーのような乾燥された植物、奥にはレゲエの神様 ボブ・マーリーのポスター、玄関から自由に行き来する猫。多くの自然と本と、生き物が住んでいる匂いが入り混じった独特な匂いが私を包み込んだ。

こ、ここは……

きっとUFOの話ができるに違いない!!!!!

この舞台であれば私は当初の目的を果たせるだろうと確信し、胸が躍った。

温かいお湯のお風呂に入れるのは週一回。水風呂なら毎日OK。洗濯は全員で週二回。衛生的に”終わってんねー”といえば終わっている。会話をしている最中にはハエが顔周りに飛んでいる状況をうる若き乙女が耐えられるだろうか。
否、慣れる。

と、いうことで、おじいさん(以下:仙人)とおばさん(以下:勾玉おばさん)、私含むお手伝いのメンバー3.4人、による共同生活がスタートしたのだ。


怒られる

「いつかUFOの話をするぞ〜!」と気合十分でスタートしたは良いものの、
見事に裏目に出てしまった。

それは初日早々の晩御飯準備中の時だった。
お手伝いのメンバーと勾玉おばさんでキッチンに立ち、それぞれが担当に分かれてアレコレ料理の準備をしていた。
来たばかりの新人の私は、お手伝いの一員としてお荷物にならないようにするのに必死だった。

あれとってこれとって、次はこれやって、と勾玉おばさんに言われたことを一生懸命捌いていった。
そしてそのたびに「これ終わりました!次何したら良いですか!」指示を仰いでいた。

このような『報告と指示仰ぎ』は、私がこれまでのバイトではやる気アピールのつもりで活用して来た手段である。
『何をすればわからなかったら質問すれば良い』と教えられて育って来ていたのもあり、この日まで間違った行動ではないと思っていた。

しかし、大事なのは報告と指示仰ぎをするにはそれが相手のタイミングを見計らえていることが前提である。

私は自分のタイミングで自分の都合で聞いたが故に、結果的にもはや『指示煽り』と化していたのだ。
そして、「こっちも指示出すのに大変だから一回静かにして!!」と怒られてしまった。

「そうか、指示出す人も大変なんだ....…!」とごく当たり前のことに気が付いた、ある意味成長の瞬間である。

だが、そう素直に思えれば良かったものの、今よりも遥かに凌駕するポンコツ豆腐メンタルだった私は、その”怒られた”という事実に瞬溶けで凹んでいた。

ここに来てからの展開が 淡白な会話→淡白な会話→怒られる と続いた結果、そうか私はよそ者なんだ…..とようやく自覚したのである。

やはり馴染めないかもしれない…

そんな風に思い、その日の夜は静かに薄い枕を濡らした。


…前途多難な初日を迎えた私であったが、
「いつか仲良くなってUFOの話をする」と裏テーマを遂行することは諦めなかった。

ここからは少しだけ寄り道してそれからの日々の風景をお伝えしていこう。

生活 朝のルーティーン

ヒッピーコミューン(仮)の朝は早い。

お手伝いのメンバーで朝食の準備だ。
ヤギのチーズに手作りパン、搾りたてのにんじんジュース。気分はまるでアルプスの少女ハイジの如き。
ヤギのチーズは思ったより獣臭の強いクセのある味で苦手だった。私のお気に入りはにんじんジュース専用機で排出される、水分の絞り切られた人参のカスにマヨネーズと胡椒をかけたものをパンの上に乗せて食べるメニューだ。
準備が終われば好きなように自分で皿に取り、食べる。
そして自分のお皿は自分で洗う。厚意で他人の分の食器を洗うようであれば怒られた。そういう決まりだった。
その後に、仙人の指示で今日の予定が決まる。

私が過ごした10日間のうち大体は晴れていたので外へ出て草むしりや小麦の回収、田んぼや畑の整備をお手伝いメンバー全員で行うのが基本だった。


奇跡の草むしり

さて、『草むしり』と聞いて皆さんはイージーだと思わなかっただろうか?

普段から草むしりの大変さを知っている方には愚問だとは思うが、草むしりは超大変である。ましてや、この山奥、人間よりも遥か圧倒的に大自然さまの方が偉かったということをまざまざと見せつけられる。絶対に抜かれない意思を持っているかのような強固な根っこ、かまいたちの遭ったかのような鋭い葉っぱカッターが永遠に続いて行く作業だ。良いか、心によく刻め。絶対に半袖で臨んではいけない。草負けをするぞ。
軍手を持って来ただけでドヤ顔をしていた私だが、8月だからという理由だけで半袖しか持ってこなかったためまんまと泣きを見た。
ただでさえ過酷なのにさらにオプションまで付けて、ド素人草むしらーの私は洗礼を浴びていた。

ところがこの草むしり中、不思議な出来事が3度もあった。

四つ葉のクローバーを余裕で見つけてしまったのだ。
3度も。
探そうとして見つけるのではない、まるで四つ葉が私を見つけてと言わんばかりに目の前に現れて来たのだ。

…..急にファンタジックなお話しなってしまったが、四葉のクローバーに神秘性を感じて育った世代なので許してほしい。

しかし、四つ葉のクローバーを見つけるたびに、仙人や勾玉おばさんに驚かれ「ラッキーガールですねぇ」と褒められるようになり、徐々に距離が縮まって行ったように感じた。
そういう意味で本当に幸運だったと思える。

初日のよそ者空気感は気づけば全く無くなっていた。やはり私がそのように強く感じすぎていただけだったのかもしれないとも思える。

ーUFOの話がしたい
この裏テーマ目標は変わらず胸の中にあった。
「自給自足体験」を提供する場として設けてもらっているこの集まり。
食事が終わった後や寝る前の時間でも仙人を囲んで色んな話を聞かせてもらう場面もよくあった。
私はいつかこのあたりの時間で聞いてみたいと密かに思い募らせていった。

するとチャンスは意外なタイミングに訪れた。


焚火を囲う

私が訪れた10日間ではちょうどそのコミューンで開催される小さなお祭りがあった。予めサイトから情報を得ていた私は、実はそのお祭りの手伝いがメインとしてやってきていたようなものでもあった。
その、お祭り後のことである。

会場から少し離れた場所で焚き火を行なっていた。
キャンプファイヤーなどという炎を囲ってどんちゃん騒ぐようなものではなく、静かに焚き火を三角座りでぼーっと見るような空間だ。
周りにほとんど人はおらず、そこに、仙人が1人で座っていた。

チャンスだ。
一対一で話す機会がこれまでほとんどなかったため緊張しながらも近くに座った。
そして改まってここへ来た理由を伝えた。なぜこの生活に興味を持ったのか、高校三年生の冬のこと、そしてこの後の人生についての迷いを拙い言葉で、気づけば相談になっていた。

「…あの、私ってなんでUFOを見たんですかね」


「現象や言葉に意味はありません、解釈があるだけです。


……私は、見える人には見える、見えない人には見えない、それでいいと思います。

確かに、
小さいおじさんを見たとか言う人はよくここに集まって来ますが、
私は見たいとも見たくないとも思いません」


おっしゃる通りだった。

その言葉を聞いて、私は自分の考え方が間違っていたことに気がついた。「UFOを見た」という現象に何か特別な事を見出したくて、必死だった。道標のない人生を生きていることが不安で、UFOのせいにして生きていく理由を見つけたかったのかもしれない。
それに、これまでUFOを見たことがない・理解を示さない人に対して「なんでだよ!」と歯痒さを感じていたのだが、それも辞めた(というか思わなくなった)きっかけになった。
UFOトークをする夢は叶ったが、振り出しである。

「じゃあ私は何をすれば…」と身も蓋もない質問をすると、仙人はにこやかに「好きなことをすれば良いんですよ」と答えてくれた。

それは、かつて私が親にずっと言われてきた言葉だった。

こんな焚き火の前で、こんな仙人のような人に言われたら、それはもう
『好きなことをする』これが私の人生のテーマなのか…と解釈する以外の選択肢はなかった。

こうして、私の十日間の滞在は終わった。

ヒッピーとはなんだったのか

過ごした10日間のなかには、8月であるにも関わらず雪が降ったこともあった。
そんな時も仙人は頭を抱えていた。畑で育つ食物の予定や状態が狂うからである。

「やったー今日は休校だ〜」「電車が止まっちゃったよえーんえーん」などの街の人間とある意味では同じであるとも言えるかもしれない。しかしこれは自給自足の農家にとって死活問題なのである。いくら体調が悪くても今日はここまで動かなくてはいけない、休めない、と天気によって行動を決められてしまう。

都会暮らしの人が憧れるような老後は田舎でスローライフ♪などと簡単に言えるものではないとつくづく思う。

実は、勾玉おばさんと初めて会った車内で言われた「私たちは全然そんなのじゃないよ」と即答された後には続いた言葉があった。

「私たちは全然そんなのじゃないよ、
ただ毎日一生懸命生きてるだけ」と。

仲が深まるうちに、色々と聞かせてくれた話。学生運動に参加してた、インドに行ってた、死後の世界について考えると今が楽になった。確かに、いわゆるヒッピーっぽい要素を持っていると感じる面は多くあった。ステレオタイプな人であればヒッピーと断定してしまうことだろう。
しかし私は、彼らをヒッピーではなく、真っ向から生きている人であると思った。
ひとつの単語で表すことはできない。ただ、生きることに向かっている。

楽なばかりではない、むしろ面倒なことばかりだ。それでも自分の人生に忠実であるために運命を引き受けていく。

それが生き抜くということなのかもしれない。

あとがき

私の滞在期間中に、ある人がお手伝いとして参加しに来た。その人は、一週間滞在すると言う。...…と思えば、三日ほどで帰ったのだ。理由はその人が帰った前夜、仙人と討論になり揉めたからだった。政治の話をしに来ていたらしい。

この場所では以前テレビに特集された影響からただの興味本位からで冷やかしに来る人がいた時期があったという。
…で、あれば、例え私のような影響力が脆弱な人間であったとしても、インターネットに残ってしまう以上は他所へ発信すべきではない。と思っていた。
正直、今も少し迷いながら打っている。
しかし、私は、あの夏、あの十日間があったおかげで今の私がいる。
書き出せばキリがないほどに思い出が出てくる。例えば…

泊まっていた小屋は実は「ごっちゃん部屋」と呼ばれていて、ごっちゃんという名前の猫が毎晩寝ている部屋だった。ある夜、寝床の真横で激しい物音がし何かと目を凝らすと、それは蛇と格闘しているごっちゃんの姿だった。翌朝、その蛇はみんなで美味しくいただきました。ごっちゃんです!ってか!

こぼれ話

生きていく上で、ひとつひとつがなくしてはならない経験であったからこそ、ここに書き残していきたいと思った。

「2度と会わないと思う」と言った言葉。
あれから十年弱たしかに会っていない。その通りになっている。

だが、夏が来るたびに私は思い出す。
その思い出の中で何度も再会することだろう。





ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


実は、この話は私のポッドキャスト番組『ゆとりは笑ってバズりたい』の中でも度々話題にしたことがある話なのですが、書いていた通り、思い出が多すぎてどこをどう伝えたらこの経験を上手くアウトプットできるかずっと試行錯誤してきました。
結局上手くまとめることは叶わずこうして長い文章になってしまったのですが、ポッドキャストでは伝え切れる事のできなかった『未知の場所へ乗り込んで行くワクワクドキドキ感』を中心に書くことに注力してみました。

あれから10年ほど経ち、私自身も新しいことへの挑戦や知らない場所へ1人で行くことに少しずつ腰が重くなってきている自覚があるのですが、改めてヒッピー村(仮)を思い出すと、まだまだ色んなことがやれるんじゃないかなぁという気持ちにさせられます。
好きなこと、やっていきたいですね。

それではまた!


ゆとりフリーター

〈ポッドキャストでのトークはコチラ〉

いつもより、良いコーヒーを飲みます!