ころな状況で行われた修了式

本日大学院の修了が執り行われ無事修了することができた。

無事?

いや自分は無事だったけど、修了式自体は無事じゃなかった。本来なら安田講堂で偉い人の話聞いたり、専攻の人たちで集まって教授陣のお話を聞いたりするのが例年の流れだったが、それらはなく、事務室で学生証を返却して書類を受け取りコースの教授から学位を授与された。比較すればえらい縮小版である。

ただし、このコースの先生から授与してもらうことだって、先生方が取り計らってくれたことである。そうでなければただ事務室で学生証と学位を引き換えてそれで修了式は終了していたのだから、それができただけでも大変嬉しかった。ありがたい。

大学院の修了式以外でもいろんな学校で卒業式が中止になったり、規模が縮小されたりしている。学部で卒業した大学も卒業式自体がなくなったとゼミの先生に話を聞いた。こんな状況で敢行される修了式を、今日を迎えるまで当の本人の自分は正直それでもいいと、端的に言えばどうでもいいと思っていた。

なぜか。

自分は留学を決めた時から休学を挟んだことによって卒業が一年遅れている。したがって自分と同じタイミングで入学(あるいは進学)した同期と呼ばれる人たちは去年のこのタイミングで修了していた。博士に進学した人もいるから、全く同期が大学にいないわけではなかったけれど、要するに仲のいい人はあまり残されていなかった。

大学にいる時間もそんな多くないから、一個下の同じタイミングで修了する後輩たちともそんなに仲良くなれていなかったし、正直なろうと思っていなかった。そんな状況を鑑みると修了式は別にあってもなくてもいい、そう思っていた。

東大の大学院の修了式はガウンを羽織る。アメリカの大学とかの卒業式で見かけるような四角い帽子をかぶるアレである。あれはほとんどの場合レンタルであるが、行われるかもわからない修了式を考えるとレンタルしなくてもいいかなーという気持ちが日に日に強くなって結局レンタルをしなかった。

となるとスーツを着ていくのが相場であるが、斜り人間の自分はあえてスーツを着ていくこともせずに、私服で、普段街を歩いているような格好で修了式に臨んだ。その方がかえって目立つ?浮いてる?モチベは低かった。

冒頭に戻ってなんやかんやちゃんと式が行われたことには正直安堵していたのも事実である。今までの人生経験の中で式が行われなかったことはなかったし、今回のように規模が縮小されたのも初めてだったが、やはり「式」が執り行われ、たくさん記念写真をとって少し別れの挨拶もすると、気持ちが切り替わって、次のステージにいよいよ立つんだという実感が湧いた。

式自体にはあまり前向きではなかったことは事実だったが、いろんな人と話をして、寄せ書きなんかをもらったりすると、やっぱり自分がここにいた存在証明というか、ちゃんとここで生きてきたんだなぁと、そんな気持ちになった。

今回は「普通」に行われなかったからこそ、一年ずれたからこそ、今までの卒業式では味わったことのない感情になった。式の後にはだいたい打ち上げにいっていたが、今日はすぐに学校を飛び出してカラオケに行った。(誘われなかったわけじゃないよ!)どうしても歌が歌いたい気分だった。そしてすこしだけ一人になりたかった。大学にいると「同期」と一緒に修了できなかった自分がなんだか寂しい気持ちになるからだ。

卒業式で泣いたことがない。ここで別れてもまた会えると思っているからである。例に漏れず今日も泣かなかった。まぁ大学院の修了式で泣いている人の方が稀であるが。自分の場合地方出身者でもないから、勤務地が地方になったりでもしない限りは大掛かりに引っ越すこともないだろう。だから別れが辛いと感じたことはない。この「式」を境にして二度と合わなくなる人もいる。でもそれでいい。一方で会う人もいるからだ。そんな人たちをこれからも大切にしたいと思った。

式が例年通り行われなかった当事者から一つ言えることがあるとしたら、「憐れまないでほしい」。式は形が変わってもその人たちの気持ちで執り行われるのだから、むしろ記憶に残る。そんなもんだ。今日という日を迎えて、たくさんのことがあったことを思い出せたから、今日という日もきっとこれからも思い出すだろう。

お疲れ様でした、自分。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?