進学校だけが良い学校ですか?

ここ数日学校における「競争」についてずーっと考えている。それは自分がいる学校が「過度な」競争に晒されていると感じていることに起因する。やはりというか、「朱に交われば赤くなる」じゃないけど、「あれ、これでいいんだっけ?」って思わなくなってしまう、感覚が麻痺しないようにこうして書き続けることを選んだ。前提として「競争」そのものを否定したいわけじゃなくって、あくまでも「行き過ぎた」競争がどうなのっていう予防線は張らせていただきます。行き過ぎた競争で育った人間がどうなるのかっていう顛末を想像力たっぷりで拡大解釈して書いていきます。

さて「競争原理」についてですが、日本社会は自由主義経済、資本主義を採用している国なので、競争は肯定されやすいという前提を確認しておきます。自由主義社会では国が経済にあまり関与せずに民間で勝手にやってくれ、というレッセフェールの精神で、その中の競争を経てどんどん社会をより良い方向性に向かわせようっていう考え方です。国が関与するときは競争が成立しないような独占状態の場合ですから、基本的に競争が成り立つように調整して、競争が成立するということはいいことで、より儲けようとして性能の良い製品を作ったり、一商品あたりの価格を下げてたくさんものが売れるようにします。あくまでも第一次産業的な単純な話にすればそうなんですけど、昨今日本社会は第三次産業的な革新的で魅力的なサービスをいかにして売りつけるのか、みたいな話ばかりな気がします。その最たる例が教育的な分野になってくると思います。

わかりやすく言えば「塾」です。点数が何点上がった、とか有名大学に何人合格した、なんていう最高に下品な看板を掲げている塾も少なくないですが、「教育」をわかりやすい「点数」とか「偏差値」という数値にパッケージ化して、この塾に入ればこれだけいいことがあります。点数が、偏差値が伸びます。みたいなことをやっています。ただ教育の難しいところは点数や偏差値があがったり、難関大学に合格することは必ずしも塾だけが要因になるわけではありません。その子ども個人の努力の成果も多分に、というかほとんどあります。例をあげると塾に行かなくても受かっていたかもしれないし、合格者数の水増しのために優秀な子に行くつもりがないのに費用を出して受験させたりと水面下で行われているなんて話を聞きます。(あくまでも噂レベルの話ですが)要は100%で塾のおかげ、なんてことはまずないんですけど、塾を経営するにあたってやっていかないといけないわけで、たくさん生徒が入れば入るだけ良いわけです。だとすればどんなに汚い手を使っても塾に入ったから成績が上がってよかった、とか塾に入っていないと受験の対策をすることが難しいです、とか不安を煽りまくるわけです。信じるものは救われる、じゃないけど子どもを大切に思う親であれば背に腹はかえられないので、大量の資金をつぎ込むことになります。親が自分の子どもをそれだけ教育できればいいんでしょうけど、専門としているとかでなければ的確なアドバイスが難しい、餅は餅屋的な考えでお金を対価としてそのサービスを享受するという交換が発生するわけですね。

少し話がそれますが、自分が大学生の時にアルバイトをしていた某個別指導塾ですが、正直いってあまり勉強のできる子がたくさん集まる塾ではなかったですが、受験に合格する子などは塾でたくさん勉強したことによる成果、塾のカリキュラムが素晴らしいとかそういうことでは全くなく、「習慣」をいかにつけられるかの勝負でした。いってしまえば個別指導塾の講師なんてほとんどが大学生のアルバイトで、教えることを専門としているわけではないのですから生徒をその気にさせるくらいの力しかないんじゃないかってその時思いました。したがって講師の戦略としては生徒と仲良くなって塾に通う=楽しいと思わせられるか、それを徹底することが成功に鍵だったと思います。語弊を恐れずに言えばキャバクラとかホストクラブに構造が似ています。人気講師っていうのは知識がすごくあるとかそういう人じゃなくって、いってしまえば「人誑し」であることが多かったです。多分自分もそうでした。そういったホストクラブなどと唯一違う点はお金を落とすのが親か本人かの違いくらいです。講師は親とは接することはないのでそこの生々しいお金の話をするのは社員が請け負っていました。多分勉強を教えてくれる講師にお金を一切感じさせないでエンターテイメント的な感じにうまく工夫することができるかどうかが大事なポイントなんだと思います。夢の国もチケットを買ってしまえば飲食やお土産を買わなければお金の匂いはしないように徹底されています。生々しいお金は親や社員にアウトソーシングして、夢の国(塾)でキャスト(講師)と楽しく遊ぶ(勉強する)っていうのが塾だと思います。塾と学校の大きな違いは成績がつけられるか、そうでないか。成績がつかないからその分のびのびして勉強に集中できると感じる生徒もいるようでした。

さて話を戻して本題に移ります。いわゆる進学校、ここでは私立の学校を想定していますが、私立の学校も塾と同じでサービスを売っています。ここの学校に入ればこれだけ良い思いができるよ、どこどこの大学に内部進学することができるよ、といった感じです。この教育をお金で買えるサービス的な発想が教育そのものを歪めている1つの要因、という仮定をしたうえで資本主義社会におけるお金=学校社会におけるテストの点数だという仮説を提唱したいと思います。

資本主義社会においてお金を持っていることが価値づけられるのだとすれば、学校は高い点数をとることによって価値づけられる社会といっていいでしょう。この価値づけは学校内における競争が強ければ強いほどその価値づけも極端になっていく、比例していくように思います。これだけの点数をとることができる自分はすごい人間である、といった風に。新自由主義的な思想が強まってからは、「格差社会」という言葉が流行語になるくらい格差は広まっていく一方です。私が働いている学校はテストの点数でクラスわけをしていますが、そのクラスで「できる人」と「できない人」というレッテルが貼られてしまい、「できない」とされるクラスに分けられてしまった生徒は自らが「できない人」であるかのごとく錯覚してしまうほどに「できない自分」というものを内在化させるようになっていきます。生徒もバカではないので明示されずとも自分や周りの生徒を見て自分が「できる方」にいるのか、「できない方」にいるのか、察していきます。「できる方」がどんどん伸びて、「できない方」はどんどん負のスパイラルに陥る。学校における学力格差が広がっていく一方です。大学付属のいわゆる「進学校」ですら全くできない、テストが一桁台の生徒もいます。私立校はボランティアでもないので、そういった子は「落第」という形で切り捨てられて地元の公立学校に通うことになるでしょう。そうなった時にその生徒が人間関係を全てリセットして再び新しく学校生活をスタートすることができるでしょうか。子どもにとってはあまりにも残酷な経験に思えてなりません。

それだけでなく、エスカレーター式の大学付属が楽なように見える人もいるかもしれないですが、普通の学校では考えられないくらいのテストの量を毎日こなして、次の成績でいくつ以上の評定を、次のテストで何点以上を取らなければ高校に、大学に進学できない、といったような強いプレッシャーに晒されるようです。何人か精神を病んでしまった生徒の話も聞きました。これが問題なのは成績下位者のみならず、成績上位者であれば関係のない話というものではないのです。富のない人間を容赦無く切り捨てる、自分には関係のない話だと割り切ってしまう人間が果たして社会にとって良いといえるのか、ということです。流行りの言葉で言えばインクルーシブな社会ですが、それとは真逆の方向の人間を育てているといっても過言ではない気がします。突き詰めるとこういった学校がつくりあげているのは「競争社会に特化した人間」であって「民主主義社会」をつくりあげていく人間ではないのです。

大学時代の恩師に「学校は社会の縮図」という言葉をいただいて、それは今でも心に残っていますが、悪い意味で最近実感することが増えました。私たちが日頃生きている資本主義社会の目をつむって見ないようにしている部分。良いところだけに目を向けて自分には関係のない、知らん顔ができるような人間に育っていってほしくないなぁと今日も学校で教えながら思っています。難しいなぁ。

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