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『センス・オブ・ワンダー』を感じた休日

こんにちは。yutoriです。
お読みいただき、ありがとうございます。

『センス・オブ・ワンダー』
レイチェル・カーソンの世界的ベストセラー。

私の中で「出会えて良かった」と思える大切な一冊です。

このタイトルを、上遠恵子さんは
『神秘さや不思議さに目を見はる感性』
と訳しています。

なんて美しい言葉なのでしょうか。

すっと理解できそうな言葉だけれども、これを実感した事のある人、それを覚えている人でないと、十分な理解ができないような感覚を受けます。

この表現以上に詳しく説明しようとしたら、その人、その人の経験や感覚によって出てくる言葉が違うでしょう。

だから、きっとこの少し曖昧さを残した表現がしっくりくるのだろうなと感じています。



さて、今年のゴールデンウィーク。
3人の子ども達と一緒に実家へ帰省しました。日帰りでしたが、とても天気が良く、気持ち良く過ごす事ができました。

私の実家は、いわゆる「田舎」「山」にあります。

最寄りのコンビニまでは、車で10分。
電車に乗ろうとしたら、駅まで車で25分。

子どもも少ないですから地域の学校は閉校していて、一番近い学校へ行くには車での送迎が必要になるような地域です。

でも、家からは高速道路が見えますし、車で30分走ったら政令指定都市に入るような位置にあるので、山奥という程でもありません。

今の住まいは、車は必要ですが、学校や病院、買い物できる場所がたくさんある暮らしやすい地域にありますので、実家の生活とはずいぶん違います。

私は実家で高校を卒業するまで暮らしましたが、小中学生の頃は、
「つまらない場所」「早く家を出たい」
と思っていました。

友達と遊べる場所はないし、携帯電話の電波も悪い。
現代のように、スマホで何でもできる時代ではありませんでしたから、流行りの物は遠い場所にあると感じていたのです。


でも、そんな感覚を持っていたのにも関わらず、不思議と子どもを育てるには良い場所と思ってしまいます。

このゴールデンウィークは、それを改めて感じました。



まず、息子(年長さん)について。
息子は今回の帰省に目的を持っていました。

幼稚園では、毎月配られる子ども向け雑誌があります。今年の4月号には、野花での遊びが載っていました。

ナズナで音を鳴らして遊ぶ。
シロツメクサで冠を作る。

私も子どもの頃にやっていた遊びも載っています。学校からの帰り道、シロツメクサを集めて編みながら帰った事を思い出します。

息子は、特に「押し花」に興味を持ったようで、「やりたい!作りたい!」と言いました。

私が、「ばあちゃんの家に、こういうお花いっぱい咲いてるから、ばあちゃんの家でやろう」
と伝えたところ、やる気満々で出かけました。

着くと早速、野花探し。
「カラスノエンドウ、カラスノエンドウ」
と言いながら探します。

私が先に見つけて知らせると、
「おお!かわいいね!」
と驚きと喜び。押し花用に集めました。

絵本の絵探し遊びとは違い、「あるかないかわからない」という感覚が、喜びを大きくしてくれるのでしょう。

その後も目的の花を見つけて集め、持参した紙に挟んでから、さらに本にそれを挟んで重しを乗せました。

出来上がったら、図鑑のようにしたいらしいです。私も楽しみです。


実家は農業をやっているので、敷地がとにかく広い。正直なところ、私も実家の敷地の範囲をよく分かっていません。

実家の敷地から出ていく道もいくつかあり、今は使っていない道もあります。

その使っていない道は、車が一台通れるくらいの幅があり、両脇に木や草が茂っています。
夏になると、その辺りの木には、カブトムシやクワガタムシが集まるので、よく探しに行ったものです。

息子は、その道を見つけると、引き寄せられるように歩いて行きました。
道はカーブしているので、道の先はあまり見えません。
でも、ぐんぐん進み、探検しているようでした。

ぐんぐん進む息子


私も後を追いかけます。何か危ない虫や動物が出てきたらどうしようと少し心配になりながら。

すると、息子は途中で不意に引き返してきます。
息子も先の見えない感じが不安になったのでしょう。何事もなかったかのように、家まで戻りました。

でも、私は道の先に躑躅の花を見つけました。

誰に見られるわけでもなく、ひっそりと。
緑の木々の中で、一際美しく、穏やかな赤を放っていました。

しばらく見ていたかったけれど、息子を見失うわけにもいかず、少し写真を撮って、その場を離れました。

躑躅

また、道を戻る途中には、山吹や藤の花がありました。

赤みを帯びた黄色の山吹。
控えめな紫色の藤。

不思議なのは、私が今まで実家に藤の花があると認識していなかった事。

この数年で咲くようになったわけではないでしょうから、私の目線が変わったのでしょうか。山吹は子どもの目線にもなる低い位置に生えているので、当然分かっていたのですけど。

未だに、実家で新しい植物に出会える事に驚きました。


息子との探検から戻ると、娘(小学2年)が玄関で何かしています。それを見守る母(子ども達からすると祖母)の姿も。

タンポポの花びらの枚数を数えていました。

学校で、「タンポポの根っこは長い。花びらは180枚くらいある」と習ったばかりで、帰省前に自宅で話していました。

それを、確かめようとしたのですね。

床にそのまま花びらを並べていたので、紙の上に並べるように促したところ、
「じゃあ、ママもやってよね」
と、枚数の多さに負けそうになっていた次女から言われました。

結局、途中からは私ばかりが数える事に。

そのタンポポは、全部で150枚の花びらがありました。
実際に確かめる事ができて、満足そうな娘。学校が始まったら、担任の先生に報告するそうです。

次は、根っこを掘ってみたら面白そうですね。
夏休みの自由研究にでもしましょうか。

数えた150枚の花びら

タンポポを数え終わると、娘が
「タンポポの見分け方わかった!」
と言います。

「お花の下がね広がってるのがセイヨウタンポポで、くっついてるのがニホンタンポポ」
(ガクの事を言っています)

母に教わったようです。
私が「知らなかった!」と言うと、
母から「え、知らないの⁉︎」と驚かれました。

でも、よくよく考えてみると、知っていたような、聞いた事があるような…花の咲き方がニ通りあるような気もする…。

私も昔、母から教わったのかもしれません。

実家には、数日前までニホンタンポポが咲いていたようです。

道端で見かけるタンポポは、ほとんどがセイヨウタンポポで、ニホンタンポポは咲いていると珍しいと聞きました。

タンポポが咲いている間に、探してみたいものです。

セイヨウタンポポ

今度は、母と子ども達が野菜の植えてある畑へ。

家族で食べる用に作っているだけなので、野菜の量は多くありませんが、ネギ、キュウリ、サヤエンドウなど、多くの種類が植えてあります。

この日は、サヤエンドウの初収穫だったようです。
子ども達はサヤエンドウが生っているところを初めて見て、楽しそうに収穫していました。

まだ小さなものまで獲ってしまったり、力任せにツルを引っ張ってしまったり。
見ているこちらがハラハラしました。

収穫できたのは、それぞれ両手に乗るくらいの量でしたけど、「自分で獲った」という感覚が特別だったようです。

私が子どもの頃は、それは当たり前にあった事ですが、子ども達には貴重な体験。

自宅では、プランターでオクラやミニトマトを育てた事はありますが、畑で歩き回りながら収穫するのは、特別に楽しい様子でした。

普段だったら、「誰が一番多く獲った」「自分の方が大きい」などと喧嘩が起きそうな場面ですが、喜びや特別感が強かったのか、そのような事も起きずに過ごせました。

収穫したサヤエンドウ

子ども達が野菜に夢中になっている間、私はと言うとミツバチを見つめていました。

菜の花を次から次に飛び回り、蜜を集めているようでした。

特別に珍しい事ではないけれど、一生懸命に飛んでいるよう見えて、「頑張れ!」と応援したくなりました。

子どもみたいですね。自分が。

ミツバチと菜の花

畑から戻ると、娘が、
「良い石見つけた!だるまさんみたい!」
と大きな石を持っています。

「お顔を描く」と言って、石に絵を描き始めました。

それを見ていた上の娘(小学6年)も、おもしろそうだと思ったようで、三角の石や楕円形の石を拾ってきて絵を描いていました。

もうずいぶんお姉さんになったと思っていたけれど、こういう遊びに今でも夢中になれる素直さがあるのだなと少し嬉しくなりました。


こうやって遊んでいると、一日はあっという間です。息子は帰りの車でぐっすり。

自然にある物だけで、新しい発見や遊び、学び、喜びにたくさん出会う事ができました。

私自身もとても満たされた気持ちになりました。

なぜ、こんなに充実した感覚になれたのか。

『センス・オブ・ワンダー』を読み返し、レイチェル・カーソンの世界へ戻りながら考えてみました。


まず一つは、私自身のこと。
この本の中に、こんな一節があります。

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤となるのです。

この文章から考えると、私は『解毒』されたのでしょう。

今の住まいでも、もちろん自然は近くにありますし、きれいな景色を見て感動する事はあります。ただ、日常生活に追われていたり、つい人工的なものに目や耳を奪われたりして、見逃していることも多いかもしれません。

人工的なものも面白いですし、楽しい。発見や学びもあります。

ただ、人間の意図のない空や風、植物、虫などに触れると、生命力を感じるだけでなく、『それ以上に何も求めていない、ただそれであるだけ』という潔さが見えます。

そして、ひけらかさない美しさ。
そこに目や耳を惹きつけられるのだと思います。
そして、
「すごく素敵なものを見つけた!」
「素敵な瞬間に出会えた!」
と、嬉しくなります。

こういう場面にたくさん遭遇できた事が、私の中の毒を無くしてくれたのでしょう。


次に、子どものこと。
3人とも、とてもわくわくした表情をして、気になるものに手を伸ばしていました。

レイチェル・カーソンは、子どもたちの世界について、次のように言っています。

子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。

彼女が言っているような世界を、我が子達も、まさにこの時に体験していたのだなと感じました。

それなりに大きくなった娘も、このような感覚を失っておらず、自然に身を置けば当たり前のように生き生きと活動できる。

まだ小さい息子、娘も、自分の興味や「どうなっているんだろう?」という疑問に素直に動いていたように見えました。

大人が何も準備しなくても、自然が学びや発見のきっかけを次々に与えてくれます。

それを楽しめる子どもに育ってくれている事への喜びがありました。


最後に、私と母のこと。

先にも書いたように、私は普段の生活でも、きれいな景色を見て感動する事があります。

「虹が出てるな。良い事ありそう」
「夕焼けが綺麗だなぁ」

そんな風に感動しやすい、子どもっぽいのは、どうしてだろうと思っていました。

その理由が、娘と母のやりとりを見て、次の一節を読んで、少しわかった気がしました。

生まれつきそなわっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」をいつも新鮮にもちつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる必要があります。

母が私にとって、『分かち合ってくれる大人』だったからなのでしょう。

娘に対する母の関わり方が、まさにそうだなと見えたのです。その関わりを、私が幼い頃にもしていてくれたのだと感じました。

だから、大人になっても『センス・オブ・ワンダー』を忘れずに、新鮮な体験を続けられるのかもしれません。ありがたい事です。

分かち合ってくれる大人が近くにいれば、子どもは安心して、目の前の不思議や新しいことに夢中になれます。

そして、気持ちを共感してもらえたら、その経験は素敵なものとして残るでしょう。

「もっと知りたい!もっとやってみたい!」という意欲にも繋がるかもしれません。

私も子ども達にとって、『分かち合ってくれる大人』でありたいなと思います。また、この感性をいつまでも持ち続けていたいです。

実家での体験と『センス・オブ・ワンダー』から、こんな気づきを得られる素敵な休日になりました。

この本は、子育てする上で大切なこと、人生を豊かにする方法を教えてくれています。これからも繰り返し読んでいきたいです。


今日、息子が幼稚園で歌を覚えてきました。
その中に、『緑の風』という歌詞があります。

息子は、風に揺れる木々を見て、
「あれが緑の風だね!きれいだね!」
と言いました。
素敵な気づきです。

子ども達もこういう感性を持ったまま、素直に育ってくれますように。

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