見出し画像

賽銭箱に鬼ころし

「タクシー会社が一つしかないから、予約しないと乗れないかもしれませんよ〜」
奈良県十津川村で民宿にチェックインをする際、そう教えられ、急いでタクシー会社に電話をした。

「朝7時半だったらなんとか」

電話受付の女性は少し訛りのある口調でそう言った。
境内を回る1時間半だけは待てるが、それ以上は厳しいとのことだったので、帰りは自分で歩いて帰ることにした。土日はバスがあるらしいが、平日は歩くか車で行くしかない。標高1,076m。Googleマップで調べると徒歩3時間と表示された。

「紀伊山地の霊場れいじょう参詣道さんけいみち」として世界遺産に登録されている大峯奥駈道おおみねおくがけみちは、平安時代から吉野と熊野をつなぐ修行道として多くの行者がこの道を往来したことで知られる。その大峯奥駈道の途中に位置する玉置たまき神社は平安時代には霊場として栄え、大峯奥駈道の極めて重要な聖地として世界遺産にも含まれている。

十津川村・庵之前橋

◇◇◇

翌朝、時間通りにタクシーは待ち合わせの場所にやってきた。
「玉置神社でよかったですか?」
「あ、はい。お願いします。」
運転手のおじさんは、それ以降無言のままゆっくりと車を発進させた。

タクシーはエンジンをふかしながら急な坂道を登っていく。次第に道路の脇が雪で覆われるようになり、視界が開けたところでは僅かに雲海が見えた。40分ほどで山頂に到着し、4000円を支払ってタクシーを降りる。知り合いがいたらしく、運転手のおじさんは少し談笑をしてから、山を下っていった。

参道の脇には薄く雪が被さり、そこで小さな生命いのちが健気に息をしている。誰かが「冬は厳しさの中に生まれる美しさがある」と言っていたのを思い出した。

杉の巨樹群の間を縫うように30分ほど参道(山道)を歩くと本社に着いた。

「令和の大改修」と呼ばれる、200年ぶりの改修工事の真っ只中のようで、授与所の周りには足場が組まれている。作業着を着た男性たちがせっせと動き回っているが、改修をしているというよりかは、清掃をしている感じだ。年末だからだろうか。

本社の周囲には、先ほどまで見てきた杉の巨樹群よりもはるかに大きな杉が神々しく聳え立っていた。
中でも樹高20m、幹周8. 3m、樹齢約3000年の「神代杉しんだいすぎ」を目の前にしたとき、そこが神域であるということを五感の全てで感じとっていた。

五感がひらかれていく。
何気なく毎日を過ごしていると、そういう感覚を忘れそうになる。夕日でオレンジに染まる海の色。雨の日の朝のにおい。夜になると賑やかに歌い出す猫の声。お米のまろやかな甘み。人の肌の血の通った温かさ。歳を重ねるごとに、経験からくる無意識の予測が、五感をひらく体験を奪ってしまっていることがある。

僕はしばらくの間、木漏れ日のほのかな暖かさを感じながら、静かに神代杉と向かい合った。

樹齢3000年。人間の想像など追いつかないほどの長い時間。
眼前にそそり立つ巨樹からみれば、23歳の僕も100歳の老人も等しく赤子同然なのだ。「年」などという人間の考え出したスケールをあてがうことさえ憚られる、そんな時間を生きてきた巨樹に手を合わせる。何かを祈ったわけではない。ただ、そうしなくてはならないような気がした。そして、ファインダーを覗き、巨樹の1/30秒の時間を写真に収めた。

神代杉

本社から少し降りたところに、樹高50m、幹周11m、樹齢約1000年の「大杉」がある。さだまさしさんが、コンサートでよく話をする噂の大杉だ。残念ながら大杉は柵で囲まれていて、さださんが話していたように、自分の腕を使ってその大きさを直接感じることはできなかった。
小さな坂道を下り、大杉の前についたとき、ふと視界に入ったものに違和感を感じた。

「賽銭箱に鬼ころしって…、なんでやねん」

賽銭箱ってお金入れる箱ちゃんうんかいな。にしても、なんで鬼ころしなんや。
そんなことを考えながら、シャッターを切る。

自分の常識ではあり得ない光景が目の前にある。あり得ないことが、あり得るという可能性を通り越して、存在しているのだ。
僕はただ「ある」ことを受け入れるしかない。しかし、あまりにも奇異な光景であるために、一度、写真に収めて見直してみるが、やっぱり「ある」のだ。

「世界最古の酒なんやて。米を噛んで吐出して放置しとくだけで自然発酵してアルコールになるんやさ」
「口噛み酒。神様嬉しいんかなぁ。あんな酒もらって」
「そら、嬉しいやろ」

『君の名は。』のセリフが思い起こされた。
神社、酒、杉。今までの人生において経験した様々ことが泡沫のように浮かび上がっては、弾けて消えていく。しかし、そのどれとも目の前の光景は結びつかない。

いや、世界なんでやねん。

自分の世界の一部が崩れ、また一つ新しく作り変えられた瞬間だった。

◇◇◇

後日、十津川村を訪れた際の写真を整理しているときに、祖父母の家にある神棚にお酒がお供えされていたことを思い出した。御神酒おみきという言葉は、それまで聞いたことはなかったが、神様にお酒をお供えするという風習を僕は知っていた。ただ、僕が見た神棚には、瓶子へいじが供えられていたし、普段、神社に行っても賽銭箱にパックの日本酒が備えられているところに遭遇したことはない。一応、ネットで調べた限り、パックの日本酒が供えられることは珍しいことではないようだが。

それにしても、どうして鬼ころしだったのだろうか。なんだかお供えとして鬼ころしは物騒な気もする。神社の方に、御神酒として鬼ころしというのはよくあることなのか聞いておけばよかった。


世界はなんでやねんに満ちている。
大災害があったということを忘れてしまうこと、沖縄の真っ青な海が黒く赤く染まった時間があったこと、個人の死もいつかは普遍化してしまうこと、忙しさが正義だと思い込み無理をしていたこと、ゴミがゴミ箱ではなく路上に落ちていること。
自分の知っている世界なんていうものはとてもちっぽけで、未知と遭遇する度に、驚き、恐れ慄き、少しずつ広がっていく。見知らぬ景色が自分に流れ込み、見慣れた景色が色あざやに意味を持ち始める。
そうした体験を経て、断片的な過去の人生の記憶がつながったり、これから進むべき道を(再)発見したりするのだ。

いや、世界なんでやねん。

今日もまた世界がかますボケにツッコミを入れる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?