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明治維新は彼なくして語れない~小松帯刀~part①

ゆたをです。
皆さんは小松帯刀という人物をご存知でしょうか?
『篤姫』など幕末を描いた大河ドラマをご覧になっていれば、ご存知の方も多いかと思いますが、一般的にはあまり知名度は高くありません。
幕末の英雄と言えば、坂本龍馬を筆頭に、西郷隆盛や木戸孝允、高杉晋作など錚々たる面々が名を連ねます。
そんな英雄たちの影に隠れている印象の人物のひとり小松帯刀。
しかし、近年研究者の間で「小松帯刀なくして明治維新はなかった」と、彼を高く評価する動きが加速しています。
僕も彼の存在は前々から気になってはいました。
特に坂本龍馬に関する研究本を読んでいると、西郷隆盛や木戸孝允よりも小松帯刀の名前が多く出てくるように感じます。
これからしばらくは僕なりに小松帯刀を考察し、そこから読み取れる現代社会を生きるヒントを探っていきたいと思います。
それでは、まずは小松帯刀の生涯について見ていきましょう。

”華の天保6年組”生まれ

小松帯刀は天保6年(1835年)生まれです。
実は坂本龍馬も同じ天保6年生まれで、その他以下のような幕末~明治を彩る重要人物もこの年に生まれています。

  • 土方歳三:新選組鬼の副長

  • 松平容保:会津藩主で京都守護職

  • 松方正義:薩摩藩出身。首相も務め、松方財政でも有名。

  • 五代友厚:薩摩藩出身。実業家として大阪の再建に貢献。

薩摩の名門出身

小松帯刀は肝付(きもつき)家という家老職の家柄に生まれます。
幕末は坂本龍馬などに代表されるように下級武士たちの活躍が目立つなかで、小松はれっきとした名家出身となります。
とはいえ、3男ということもあり立場は低く、親からの愛情も薄かったという逆境に直面していたようです。
小松はその逆境をバネに必死に勉学に励みました。

稀代の名君・島津斉彬のもとで働く

苦労した小松帯刀も20代になると、藩から奥小姓・近習番(主君の身近で世話・警護を行なう者)に選ばれ、江戸で働くようにも命じられます。
このときの薩摩藩主は稀代の名君との呼び声高い島津斉彬。
島津斉彬は卓越した先見性を持ち、軍艦や大砲の製造などを行う「集成館事業」を推進していきます。
欧米列強に負けない国力をつけるため、当時日本における最先端のイノベーションを展開していったのです。
若き小松帯刀にとって、島津斉彬のもとで働いた経験は貴重な財産になったことでしょう。

薩摩家老への大抜擢

名君・島津斉彬も1858年に志半ばにして急逝します。
斉彬の死後、家督を継いだのは12代藩主・島津久光です。
そして島津久光は小松帯刀を側近にして、小松帯刀も亡き島津斉彬の意志を継いで藩政改革を推進します。
小松の部下には、大久保利通らもいました。
彼らと協力して洋学校を設立するなど、藩の近代化に尽力します。
そして小松帯刀は27歳という若さで薩摩藩の家老に任命されます。
家老とは、大名の家臣のなかでも最重職であり、家中を統括する役職となります。藩主を助けて藩政を行うこともあるので、いわば薩摩藩のNo2ということになります。
今風に言うと、企業のCOO(最高執行責任者)的な立場でしょうか。

ここから小松帯刀の更なる大車輪の活躍が始まります。
次回も引き続き小松帯刀の生涯を眺めていきたいと思います。

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