ふたつの大きなコンプレックス
「コンプレックス」という言葉をはじめて聞いた時のことをよく覚えている。それはまだ私が小学校に上がる前、とある子ども向けの英語学習番組でのことだった。
視聴者からの質問で、「マザコン」、つまり「マザーコンプレックス」という言葉が取り上げられていたが、それは英語的には正しい表現ではない、という内容だった。
その時私は「マザコン」がどういう意味なのかもわかっていなかったが、それがどうやら“間違った”表現であるらしいということだけは理解できた。その実際の意味を知るのは、それからしばらくしてのことであるが、今でも私は日本語における「コンプレックス」の用法に、ほんのりと“誤り”のニュアンスを見出す。
ところで、最近私にはふたつの大きなコンプレックスがあることに気づいた。今日はそれについて、淡々と書いていこうと思う。
ひとつ目は、「私は何も知らない」ということ。
「何も知らない」というのは極端かもしれないが、私は一部の一般常識について非常に疎い。「お宮参り」とか「七草粥」とか、そういった類のことだ。それがいつ行われて、何をして、どういう意味を持ち合わせているのかについて、何度説明されても、何度自分で調べても、数日後、ひどい時には数時間後に、すっかり忘れてしまうのだ。
昨年母が亡くなった際、お線香を上げに家に来てくれた友人が封筒を私に差し出した時、私は「これ、何…?」と口にしてしまった。「香典」を知らなかったのだ。
これはきっと、育ってきた環境に起因しているのだが、どういうわけかこの手のしきたり的なことや季節の行事に一切の興味が持てず、興味が持てないが故に、何度聞いても一切記憶に残らない。
家の中で完結すること、例えば七草粥のように食べるも食べないも個人の自由、といったことであればまだ誰にも迷惑をかけないのだが、最近この私の無知による弊害が出ている。
それは、人の家に呼ばれた際、手土産を持っていくのを毎回忘れる、ということ。いつも、その人の家の扉の前でふと気づく。あ、まずい、手ぶらだ、と。私にはその習慣が欠落しているが、それはどうやら先の「しきたり的なこと」にカテゴライズされているらしい。よって、私は性懲りも無く同じ過ちを繰り返し、扉の前で絶望するのだ。
いずれにしても、今後も私のこういったしきたり的なことへの無関心は継続していきそうだ。改善は見込めそうにない。非常に残念だ。
もうひとつは、「私は何もできない」ということ。
こちらに関しても少々大袈裟な表現かもしれないが、実際に私はこのように感じている。何らかの技術を持っているわけではなく、私ひとりでは何もできない。絵が描けるわけでも、モノが作れるわけでもない。香水制作にしたって、調香師の力なしでは取り組めない。
一方で、今から何らかの技術を習得しようとしても、結局私よりも上手にできる人が既にいるのだからあまり意味がないと思ってしまう。よって、何かしらの技術を習得しようという気にもなれない。
結果的に、技術のある人をいつも羨望の眼差しで眺めることになる。私はいつまで経っても、何も身につけられないでいる。
だから、どうにかブランドを立ち上げて、こうにか運営している私に対し、「なんでもできるのですね」という言葉を投げかけられることが多々あるが、私自身はそこに違和感を覚えてしまう。実際ここまでの道のりを振り返って、その中にどの程度私の力量によるところがあるのかを考えると、雀の涙ほどもないそれを再確認し、なんだかガッカリしてしまうのだ。
このどちらにしても、「だからダメ」というわけではないが、私はどうやらこれらのことに引け目を持っている、ということにここ最近ふと気づいたのだ。だからこれから“常識人”になろう、とか、何か技術を習得しよう、というつもりはない。私はこれらのコンプレックスと共に、これからもきっと生き続けていくのだろう、という認識を新たにしたまでだ。
そして、結果的にこれらのコンプレックスにより、今の私があることも同時に強く感じている。「私は何も知らない」と思っているから、あれこれのことを知ろうと思うし、「私は何もできない」と思っているから、調香師になる道は諦め、ディレクターという立場で、なんのスキルもなく香りのクリエーションに携わっている。
ふたつの大きなコンプレックスは、どちらも今の自分に不可欠なのだ。それを再確認できて、私はちょっとだけ安心することができた。
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