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幸せでいるためには
「ときどき、なんだかすごく怖いのよ、先のことが」と妹は言った。
「良い面だけを見て、良いことだけを考えるようにするんだ。そうすれば何も怖くない。悪いことが起きたら、その時点で考えるようにすればいいんだ」と僕は渡辺昇に言ったのと同じ科白をくりかえした。
「でもそううまくいくものかしら?」
「うまくいかなかったら、その時点でまた考えればいいんだ」
昨日のnoteの続きのような話なのだが。
ここ最近、ずっとネガティブ思考だった自分を恥じて、いろいろなことをポジティブに捉えるように努めることにした。ただ、実際にやってみると、常日頃から些細なことで苛立ちを覚えるようになっている私自身に気づき、さらに恥ずかしい気持ちになった。
仕事を終え夕方ごろに家に戻った。食材とポテトチップスを調達したかったのでスーパーに向かった。道を歩きながら、私は自分がとても幸せ者だと思い込もうとした。すると本当にそうであるような気がしてきた。不思議と背筋が伸びた。
スーパーで買うものはだいたい決まっている。果物ならばリンゴかブドウ。野菜ならばトマトかアボカド、あとはレタス。瓶詰めのレンズ豆とグリンピースに、パスタソース。水は最近はもっぱらPerrier。
ただ今日はハッピーになれる何かを買おうと思った。普段は買わない、ちょっとした贅沢を探してみた。すると、果物コーナーに小玉のメロンが1つ3ユーロ弱で置かれているのを見つけた。これだ、と思った。
お会計を済ませて外に出る際、入り口に突っ立っているお店の人に“Au revoir”と挨拶をした。いつもは無愛想で返事がこないこともザラだが、今回はひどく丁寧な返答がきた。不思議なこともあるものだ。
家に着いたのは夕方6時。最近のパリは夜10時過ぎまで明るい。夕飯にはまだ早い。少しランニングをすることにした。
家から少し走ったところに警察官が数名いた。細い道を何台もの車を乗せた大きなキャリアカーが誘導されていた。
特段急いでいなかったのでそのキャリアカーが通過するのを待とうとすると、ひとりの警察官が笑顔で「先に通って問題ない」と伝えてくれた。不思議と印象に残る笑顔だった。
家の近くには「ブローニュの森」があり、中に入って少しいったところに瓢箪型の湖がある。私は普段その周りを走っている。
今日はとにかくゆっくり走りたかった。何人かに追い越された。以前は誰かに追い越されるのが嫌でしょうがなかったが、今日は全く気にならなかった。むしろとても素敵な気分だった。
瓢箪の上下の玉の間は片側1車線の細い道路が通っている。帰宅ラッシュの時間でもあったからから、意外と交通量は多かった。いつもはここを渡らずに瓢箪の上の玉の周りだけを走るのだが、今日は下の玉の周りも走ろうと思った。
私は瓢箪を上下に分ける車道の車が途切れるのを待った。急いでいなかったからいくらでも待てた。
私から見て奥の車線を走る黒い大きなベンツが止まってくれたが、手前の車線は流れ続けた。するとそのベンツはクラクションを鳴らし、手前の車線の流れを私のために止めてくれた。
私は渡りながら運転手の男性に親指を立てて感謝を伝えた。彼は白い葉を覗かせた笑顔を2回横に振った。歩行者を優先させるのは当然のことだ、と言わんばかりに。
途中花の香りを嗅いだり、湖に浮かぶ鳥たちを眺めたり、対岸にいる黒猫に挨拶をしたりしながら、8キロほどのランニングを終えて家に帰った。
不思議だった。なぜか周りの反応が大きく変わったように感じた。私自身がポジティブでいようと努めることで、周りの人からいいリアクションをもらえるようになったようだった。
それに、こんなに幸福な気持ちに包まれるのは久しぶりだった。周りに変な人がいても気にならなくなった。私がいかに普段イライラしながら過ごしているかがよくわかった。
闇雲にポジティブを振り撒くことには正直抵抗がある。ただ、今日のこういった出来事を通して、幸せでいるために一番重要なことは、「自分は幸せである」とまず自身が思うことが大切なのではないか、と思うに至った。実際に私は、今日の夕方を、「自分が幸せである」と思いながら過ごした結果、幸せに過ごすことができた。なんだかトートロジーのようだが、実際にそうなったのだ。
幸せを感じながらランニングをしていたら、昨年旅だった母の、介護中の言葉を思い出した。それは余命2ヶ月を宣告され、私の家に来た直後の言葉だった。
「私は今、とっても幸せなのよ。君にはわからないと思うけど」
今私は、母の言葉が、ほんの少しだけわかったような気持ちになった。
家に帰って夕飯の前にメロンを食べることにした。硬い皮に覆われていたが包丁を入れると簡単に真っ二つになった。4分の1を切り分けて残りはラップに包んで冷蔵庫にしまった。
4分の1はかぶりつくには少し大きかったのでさらに半分に切った。種を取り除いてオレンジ色の果肉を齧ると、甘く柔らかいそれが口いっぱいに広がった。
人生を象徴しているような気がした。
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