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作品は正解に辿り着こうとするプロセスの中で生まれるもの

先日「神山まるごと高専」で授業を行ったときのこと。とある質問が印象に残った。


私はその日自分が準備したプレゼンテーションにあまり納得できていなかった。キーメッセージは「普遍性追求の中に現れる個別性がクリエイティブな行いには大事」であった。はじめから個性を追い求めるのではなく、そのジャンルにおける「普遍的なよさ」をまずは追求するべきで、その中で自ずと現れる「個別性」こそが、本当の意味での個性である、という主旨だ。

納得できていなかった点はふたつ。高専生にわかるようにうまく噛み砕けていなかったように思っていたことと、これをなぜ今私が高専生に話したいと考えたかに関する明確な理由がなかったこと、だ。


なんとなく手応えのないままプレゼンテーションを終了したが、思いがけず多くの質問が挙がった。鋭い質問も多く、神山まるごと高専も2期目に入ったことで、生徒たちのレベルが上がっていることを感じさせられた。

そんな中、ある女子生徒が、内容はまとまっていない中、言葉を探しながら、こんな質問を投げかけた。

「普遍的なよさ、というのは、誰に対してなのでしょうか?」

彼女は続ける。

「私たちはいつも、『答えのない問いにどう答えるか』ということを先生たちからいわれ、それに取り組んでいるけど…そういう問いにも、答えが本当はある、ということなのでしょうか…?」
これは私が「ここでいう『普遍性の追求』とは、『正解を探す』といいかえるとわかりやすいかもしれない」と口にしたことによるのだと思う。

実際の彼女の質問はもっと長く、言葉こそまとまってはいなかったが、私の意図をなんとか汲み取ろうとする痕跡と、彼女自身が抱えている問題意識のかけらを私に感じさせた。

少し考えて、私はこのように回答した。

「ある問いに対し、正解の有無というはきっと誰にもわからない。先生たちは『正解のない問い』というが、もしかしたら実は正解があるかもしれない。だからこれは、基本的にはスタンスの問題なんだ。ただし私は、モノを作る中で何かを追求するということは、「正解がある」と“仮定”して、それに向かって突き進むことだと考えている。そしてモノや作品は、そのプロセスの中で産み落とされる。それは、最初から「正解などない」と、わかりもしないのに決めつけて取り組むのとは大きな違いがある。

「正解などない」と決めつけてしまった方が気持ち的は楽だろう。どんな回答を出してもいいわけだから。「正解がある」と仮定すると、途端に自分の向かっている方向が正しいのかを常に考えなければならないし、まだ正解に辿り着いていない中で回答を出さなければならない。モノづくりには、そういうプレッシャーが必要だと私は思うんだ。

きっとどこまで追求したって、正解には辿り着けないし、本当のところ正解なんてないかもしれない。それに、各人が目指す“正解”はきっとバラバラなはず。でもそれでいいんだ。正解のありそうな方向に向かって邁進することそのものが重要なのだから。そして、その時に現れる違いこそが、私は個性だと思う」

私の目には、彼女が少しだけ納得してくれたように映ったが、実際のところはどうだったのだろう。


彼女の質問のおかげで、「作品とは正解に辿り着こうとするプロセスの中で生まれるもの」という、自分の中で今までうまく言語化できていなかった思考が具体的なものとなった。本当はプレゼンテーションをその言葉とともに締めるべきだったのだろう。

そして、改めて人に何かを教える、伝えることの難しさを知った。ただの授業だったら知識の伝達で構わないだろうが、この「神山まるごと高専」の起業家講師に期待されている役割というのは、起業家自らが自問自答を繰り返しながら「正解」を目指す中での、より「正解」に近いと思われる、まだ誰も辿り着いてない地に咲く花が、どれだけ美しいかを生徒に語ることなのだから。


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