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木星と冥王星の話

理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。それは僕に、段ボール箱にぎっしりと詰め込まれた猿の群れを思わせた。僕はそういった猿たちを一匹ずつ箱から取り出しては丁寧に埃を払い、尻をパンと叩いて草原に放してやった。彼らのその後の行方はわからない。きっと何処かでどんぐりでも齧りながら死滅してしまったのだろう。結局はそういう運命であったのだ。
(中略)
僕が話した相手の中には土星生まれと金星生まれが一人ずついた。

『1973年のピンボール』村上春樹


土曜日の夜、伊勢丹新宿店での店頭接客を終えた後、家に帰って豚しゃぶにして、15分の仮眠の後にサイクリングをすることにした。夜9時ごろのことだった。

国会図書館のあたりまで行って帰ってくる、合計1時間くらいのルートのつもりで家を出たが、山手通りから甲州街道に入ったとき、ふと、「今日は夜から雨が降る」という話を聞いたことを思い出した。

誰から聞いたんだっけ。

信号待ちの間に天気予報をチェックすると、18分後に雨が降るとのことだった。結局新宿あたりで方向転換をして自宅へと戻ることにした。濡れ鼠にならなくて済みそうなことを受けて便利な世の中になったと思う気持ち以上に、天気予報“ごとき”に行動を制限された惨めな気持ちが大きかった。


帰り道、その雨予報を誰から聞いたか思い出した。伊勢丹での店頭接客時に近くにいた社員さんだった。お昼過ぎはまだ店内のお客さんがまばらだったので、暇を持て余した私は社員さんたちとあれこれ話していた。その中でとある社員さんからそんな話が出たのだ。

その日は3人ほどの社員さんとそれぞれ話し込んだ。全員私よりも歳上の女性で子持ちだった。結婚や離婚、夫婦生活、子育て、推し活…彼女たちは、きっと彼女たちにとっては当たり前にやってきたことや日常なのだろうが、私にとっては新鮮なあれこれを私に語ってくれた。彼女たちが話すことの何ひとつとして、私は経験していなかったのだ。なんだか木星での出来事について聞かされているようだった。

一方で彼女たちは、私の話を(きっと)面白がって聞いてくれた。外資系の金融機関で働いていた時のこと、パリでの生活、ブランドを立ち上げるに至った経緯、ここ最近の出張続きの生活…彼女たちにとっては全くの別世界、多分冥王星くらいの話だったのだろう。

「誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた」のだ。その日の雨の話は私たちの間でなされた唯一の地球の話題だった。


結婚、離婚、子育て、そして推し活…私は普通の人が普通に経験してそうなこれらのことを、本当に何も経験せずに36歳になったことに今更ながら気づき、少々驚いた。それと同時に、私はそういったことが、今後私の人生の中で起きることを、うまく想像することができなかった。きっとそれは、彼女たちがこれから自身のブランドを立ち上げることを夢想するのとあまり変わらないのだろう。木星と冥王星では、光量も重力も大きく異なるのだ。


とにかく遠く離れた街の話を聞くのが好きだ。そういった街を、僕は冬眠前の熊のように幾つも貯めこんでいる。目を閉じると通りが浮かび、家並みが出来上がり、人々の声が聞こえる。遠くの、そして永遠に交わることもないであろう人々の生のゆるやかな、そして確かなうねりを感じることもできる。

『1973年のピンボール』村上春樹


家に着く頃には、自転車のライトがぱらつく雨粒を捉え始めていた。私ははるか遠くにあるはずの木星のことを思いながら、それが思いがけずに近くにあるのか、あるいは望遠鏡ですら見えないところにあるのかを思案してみた。

冥王星の上は思いの外暗く、私のところからは何も見えなかった。明るいかもしれない木星を想像しながら、私は暗い冥王星が案外気に入っていることに気がついた。

その一方で、私は木星の話を聞くのがとても好きであることにも同時に思い当たった。それに、もしかしたら遠いようで実は近いのかもしれない。もし近いのであれば、それはそれで結構、きっと私のことだから、木星での生活もそれなりに楽しめることだろう。


いずれにしても、まずは冥王星での生活基盤をしっかりしなければならない。木星旅行は、その先の、そのまた先のお話になるはずだから。


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