
寂しい思いをしなくていいように
朝から外でのミーティング続きのバタバタした日だった。ランチを食べながらパソコンでメールを返し、移動中に電話をかけた。
バタバタの原因のひとつは移動の多さだった。東京の西から東へ、東から西へ、と動き回った。一度の移動にも必ず乗り換えが伴った。本当ならば自転車で全て回りたかったが、時間の兼ね合いでそれは難しかった。
浅草橋から総武線に乗って市ヶ谷までいき、有楽町線に乗り換えた。午後2時の車両はそれぞれの座席に飛び石のような間隔で人が座っていた。時間帯のせいだろうか、うたた寝をする人も多かった。
私の目の前には30代くらいの女性と男の子ふたりが座っていた。お母さんは一番端の席のついたてに身体をもたせかけていた。小学校低学年くらいの子どもが彼女の腕に包まれて、まん丸な目をきょろきょろさせていた。一番下の5歳くらいの男の子はお兄ちゃんにもたれかかって、左手の親指をしゃぶりながらしっかりと眠っていた。
お母さんは目を瞑りながらも微笑んでいた。子育てによる疲労が彼女の幸福をさらに崇高なものへとしていたのだろうか。
もうすぐお盆ということもあってか、母のことを思い出す時間がここ最近少しだけ増えたように思う。昨年3月末に亡くなった母と過ごした最期の1ヶ月半は、今となってはかけがえのない思い出となっている。
在宅介護をしている時、母は何度も「幸せ」という言葉を口にした。「私が今どれほど幸せか、きっと君にはわからないよね」ともいった。
正直、私にはよくわからなかった。自分が2ヶ月足らずであの世へと旅立つことがほぼ確定しており、私の家の介護用ベッドの上でほぼ動けず、定期的に投与される痛み止めで意識が泥の中へと沈みゆくその状況で、どうして「幸せ」という言葉が出てくるのか、理解ができなかったのだ。
それがここ最近、母のその気持ちを“裏返し”の形で少しだけ理解できたように思う瞬間があった。
それは、この先は母のいない人生を歩んでいかなければならない、とふと悟ったときだった。あと何年私は生き続けるのかはわからないが、最長50年くらいの残りの人生、母に一度も会うことなく終えることになる。
それは当然のことなのだが、その事実に気づいたとき、私はたまらなく寂しい気持ちになった。もうあのひだまりのような笑顔を見ることなく、私はこの世を去ることになるのかと考えると、そんなことはあってはならないような気さえするのだ。
その時ふと、母が感じていた「幸せ」は、これから先に私が抱く寂しさを、ぎゅっと凝縮して、それを“ひっくり返した”ものなのかもしれない、と思った。心から愛し合った人と、最期の瞬間を共にするということは、もうその人がいなくなることで寂しい思いをすることがなくなり、最期をその人で彩ることができる、ということを意味しているのではないだろうか。
電車の中、私の目の前にいたお母さんは目を覚ました。彼女は慈愛に満ちた目線をふたりの子どもたちに注いだ。それはルネサンス期に描かれた聖母マリアの姿を私に思わせた。
上の子は彼女と何かを話していた。それはきちんとした言葉ではない、曖昧な掛け声のようなものだったが、それでもふたりの間ではきちんとした意思疎通ができていることが手に取るようにわかった。きっとふたりの間に、言葉なんて必要ですらなかった。下の子は、そんなふたりにお構いなしに、母の庇護のもと安心しきって、懇々と眠り続けていた。彼の左手の親指は口の中に含まれたままだった。
彼女が、そしてすべての母が、これから先寂しい思いをすることがないように、そして彼女たちの最期が、幸せで満ち溢れるように、サングラスで目を覆い隠した私は、そっと祈りを捧げた。
【çanoma公式web】
【çanoma Instagram】
@canoma_parfum
#サノマ #香水 #フレグランス #ニッチフレグランス #canoma #canoma_parfum #パリ
#フランス