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意図的あるいは恣意的に不明瞭な意図

「意図が見えない」あるいは「意図が隠されている」というのがコミュニケーションの中で大きなストレスになる。「話は変わるんだけど」といった前置きもなく急に話題が変わった時に、なぜその話が出されたのかが不明瞭だと上手く話題についていけなくなったり、話している内容とは異なる“裏の意図”のようなものを感じてしまうととたんにゲンナリしてしまうのだ。

このように感じる人が多いのか少ないのかはよくわからないが、年齢に伴ってだろうか、私においては元々あったこの傾向がより強くなってきた節がある。

そんなわけで、SNSを見る頻度がグッと減った。X(「旧Twitter」と付記するのはいつまで続くのだろうか)はそもそも的を得ない批判的な言葉が散見されるようになってからというもの、投稿するのみで私へのリプライ等も含めて一切見なくなったが、ここ最近はFacebookやInstagramからも少しずつ距離を置いている。その原因は、冒頭に記した「意図が(意図的あるいは恣意的に)不明瞭」になっているコミュニケーションの増加にある。


わかりにくいと思うので、そういったコミュニケーションの一例を挙げる(が、これはそういったコミュニケーションを批判しているわけではなく、私が単純に苦手である、ということを予めご理解いただきたい)。

誰かと食事にいった後、SNS上でその人をメンションし、その人との会話がいかに有益だったかを書き連ね、最後に「ありがとうございました」などの感謝の言葉で締めくくるような投稿は、まさにそういったコミュニケーションに該当する。「ありがとうございました」という言葉だけをとると、本来であれば一緒に時間を過ごした人への感謝だが、本当にそうであればその人に直接メッセージを送ればいいのだ。それを公にするというのは、そこには(意図的あるいは恣意的な)別の意図があることになる。

その意図とはどういったものなのだろう。その人と親しい関係になっていることのアピールかもしれないし、ただ楽しい時間を過ごしたことを公言したいだけかもしれない。さらには、ある特定の業界や関係性においては、そうすることが“マナー”ですらあるように見受けられる。いずれにしても、私にはその意図がそのどれに該当するのか、あるいはしないのかが不明瞭だし、そもそもそれが純粋な意味合いでの感謝の言葉ではないことは確かである点において、微妙なモヤモヤを生じさせる。

繰り返すが、上記のような行為が悪いといっているわけではない。私が単純に苦手である、ということだ。


ここ最近、SNSに限らず、リアルなコミュニケーションの中でもそういった「意図的あるいは恣意的に意図が不明瞭」なものに触れることが多くなったように感じる。あるいは、私がそういったものに対して敏感になっただけなのかもしれない。特にリアルにおいては、自分のことを大きく、またはよく見せようとするための言動がその大多数を占めている。いわゆる「マウンティング」と呼ばれているものの一部であるのだろう。

その度に、私はその本当の意図を探ろうとし、結局探り当てられずに疲れてしまう。そして、その人から少しずつ距離をとるようになる。

ただ、そんなことを言っていたら、私は誰とも付き合えなくなってしまうのかもしれない。みんな、そういったものに疲労を覚えつつも、「社会生活とはそういうものだ」と割り切って生活しているように私には見える。こんなことをつらつらと書く私は、ナイーブで弱いのだろう。


いずれにしても、私はシンプルで簡単なものが好きなのだ。そして私自身も、シンプルで簡単でいたいと思う。

そんな「意図的あるいは恣意的に不明瞭な意図」にたくさん触れていく中で、私自身もふと、そういったものに、知らず知らずのうちに手を伸ばしているように感じた。完全に毒される前に、シンプルで簡単でい続けるために、少し遠くへ行きたくなった。


私は、弱いのだろうか。

それならそれで構わない。シンプルで簡単な自分を守るために、遠くへ行こうと思う。


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