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米国コロンビア大学院合格までの道〜キャリア編①〜

こんにちは!
こちらは、前回の投稿の続編です。投稿者の個人的バックグラウンドにご関心ある方はぜひ。

今回は、なんの強いバックグラウンドもない普通の大学生が、Teachers College, Columbia University(通称:コロンビア大学教育大学院、以下TCと略します)に志願し、合格へと至らしめた、その「キャリア・経験」にフォーカスしてお届けします。

(※今回は内容として少々難しい+棘の多い部分があります。訳わからない文章は飛ばし飛ばしでお願いします。)

大学院受験では、一般的にrésumé/CV(いわゆる職務経歴書)という書類の提出が求められます。また、これまで歩んできたキャリアは、Statement of Purpose(志望理由書)や推薦状にも記述することができます。当然TCにもそれらの提出が求められました。各提出書類に、私は以下2つのキャリアを記載しました。

  1. 学生団体で、代表としてラオスの教育開発/協力に従事したこと。

  2. 国際NGOで広報・ファンドレイジング、紛争地の教育プロジェクトに携わっていること。

今回は 1. にフォーカスし、「どんなキャリアを歩んできたか」の前編をお届けしたいと思います。


「教育開発/協力」に片足突っ込んだ大学生

前回を軽くおさらいすると、、
「教育を通した国際社会の平和」を目指し大学に入ったものの、元から教育に淡い期待を抱きすぎていたが故に教育の不確実性に絶望。その後ヨハネ・ガルトゥングの「構造的暴力」という概念を知り、まずはこれだ!と決意した矢先、途上国ラオス🇱🇦に教育支援を行うサークルに出会います。

抜け出せない「自己満足」のジレンマ

私が学部時代に所属していたのは、いわゆる "途上国に学校建てます系" サークルでした。ある程度の社会貢献ではありつつも、やはり非効率性や責任能力の欠如から、批判やバッシングのある活動でした。また別の機会に詳しく書きますが、学校を建てたり、教育インフラを整えるだけでは、社会に与えるインパクトはあまりにも小さい。学生が集めた寄付金だけで成り立ってしまった"学校"なるものは、その場凌ぎの脆弱な学び場でしかなかったのです。私の入団直後も、いかにして教育支援が「自己満足」にならないように配慮するか疑問視されていましたが、その答えが出ることはありませんでした。

そしてある日、途上国界隈のとある有識者に、仲間がこんなことを言われました。

君らのやっている教育支援は、8割が無駄。

笑っちゃうぐらい辛辣ですが、この言葉が私の心に火をつけました。なぜなら、その批判がそれなりに正論だったからです。実際、我々の団体が支援したとある村の学校校舎が、それを取り巻く地域コミュニティで維持・管理がうまくいかず廃校(別の村の学校へ移籍)になったケースもありました。

そんな大事故があった事実に、先輩たちは見て見ぬふりをしていました。"建設"が彼らのゴールだったようにも思えました。

悔しくてたまらなかった私は、組織の大改革を志します。友人の後押しもあり、全国200名規模の学生団体を統括する代表の1人に就任。「コロナ禍で何もできない世の中。せっかくなら今までの活動を見直して"自己満足"から抜け出そう」と決意しました。

アカデミック・プライド

そして今だから言えますが、プライドもありました。サークルの中で数少ない「教育をガチで学ぶ名大生」として、学術の視点から論理的に考察し、団体の抱えるジレンマを解消しようと考えました。専攻外ではありましたが、教育行政学ゼミや開発学講義などにお邪魔して「開発途上国における(学生主体含む)教育支援がなぜこれほど非効率か」という疑問を持ちながら、自分なりに研究活動を行いました。

アフリカ諸国の学校を事例に取り、就学率・退学率などの推移も参考にしつつ、「貧困層の多い地域において、開発援助により一時的に教育が普及するも、再度衰退する」というオモシロ事例を調査しました。分析を重ねるにつれ、「学校のマネジメント層、行政官らの能力不足」「地域コミュニティにおけるステークホルダー間の包括的な協力体制の軽薄さ」が、その事例のボトルネックとして示唆されました。

「確かに、現地のステークホルダーやカウンターパートと絡んだことないなぁ...これはウチの団体にも言えることだ!」と確信した私は、言葉をかなり噛み砕き「支援先のラオスで暮らす人たちと、学校の運営維持・管理に向けた協力体制を作ることができないか?」と幹部級の仲間に伝えました。ただ、ラオス国内での社会活動は若干敷居が高くカウンターパートなる組織は限られていました。そこで、現地の方との協力体制をゼロから構築するべく、団体の新たな施作を次のように考案しました。

  • 中長期的な団体ビジョンの新創設

  • それを基軸にした、募金の強化と地域コミュニティにおける啓発活動

代表としての苦い思い出

しかしながら、中学の生徒会長を除いてほぼ初のリーダーシップ経験だった私。団体のマネジメントの難しさに翻弄されます。日々の統括業務や、約200名夫々の個性的な意見に向き合うことの難しさに直面。そして、ビジョン新創設に関しては組織全体に広がる「変化」への不信感にも絶望しました。

というのも、元よりその団体が掲げていた"理念"には統一された目的意識がなく、また「組織の活動を単に言語化したもの」でした。しかしそこに異を唱えることは、活動の根幹を揺るがし柔軟さを制限するものとして、最初は反対多数でした。「先輩が築いてきた団体を変えたくない」という伝統保守派もいました。しかしながら、支援先のラオスにおいて、教育アクセスが限られる村・地域はかなり多く、教育が抱える課題も無数にあった状況下で、何かしらの目的意識を持たねば継続的かつ精力的な活動も困難であり、それこそ「自己満足」から抜け出せられず、活動はマンネリ化していく一方だろうと確信していた我々幹部級は、「学校に通う子どもの主体性を育む。社会全体の教育意識を向上させる」という旨の中長期ビジョンをかろうじて創設しました。

そして、「学校教育をとりまくステークホルダー間の協力体制」の基盤を創り上げるため、ユース(若者)を対象とした日本-ラオス間オンライン交流プロジェクトを実施しました。彼らが住むラオスの農村部において教育アクセスが著しく乏しい状況や、児童労働を防止し教育を受けることの重要性などを啓発しました。参加者は、ほとんどがラオスの都市部に暮らす裕福な大学生だったため、そのような状況を「初めて聞いた」という声が多くありました。いずれは、我々の学生寄付によって立ち上げた「学校」なるものを、地域コミュニティはじめ、ユース層が主体となって維持・管理してくれるのだろうか、と期待感が高まりました。

しかし我々の執行代で基盤は出来たものの、結局それ以降、団体内の後輩たちに同じ価値・意義が浸透しその活動が継続することはありませんでした。「僕らはビジョンを作るために活動していない」なんて言葉も(後輩から)かけられてしまう始末でした。完全なる力不足のままに、満期にて団体を引退します。

大学院への示唆

悔しい気持ちが残る中、大学3年生の終盤を迎えた私はいよいよ海外大学院への準備を始めるわけですが、「この団体での経験を、大学院で活かせないか」と思い自己分析をしてみました。そこで私の「こだわり」として以下のことに気づきます。

  1. 学術(理論)と実社会(実践)を往復することによって、論理的にインパクトを残そうとする姿勢

  2. 現場主義を忘れず、当事者の声や行動を大切にする姿勢

  3. 地域のエンパワーメントを図り、現地のオーナーシップを醸成すること

  4. ユース(若者)を社会活動の基軸に置くこと

開発従事者の方にとっては至極当然の姿勢なのかもしれませんが、この「こだわり」を大学院受験・奨学金応募での私のアピールポイントとして活かしたいと考えるようになりました(志望理由書にはこの魅力を最大限に反映するよう注力しました)。

そして、ふと振り返った時、私の"昔の夢"を思い出します。

「そのテロと起こす人やら武器を持つ悪者に、道徳を教えて、暴力はダメだぞと伝えりゃ、武器は使わないだろうし、平和な世界に変わるんじゃないか?」

前回の投稿

中学生の稚拙な思考回路とのマッチングポイントが、帰納的にも演繹的にも見えてくるようになりました。ならば「平和を教える活動」においても、私が培ってきた「こだわり」なり経験なりが発揮できるのではなかろうか?と。4つのこだわりが上手く機能すれば、かつて不可能だと諦めていた「教育を通した国際社会への平和」に向けた取り組みが、曲がりなりにも社会に何かしらのインパクトを与えられる、そしてそれらを実現可能にする第一歩は、アカデミアにおける修行(=研究活動)だと確信します。

そして研究計画を作成すべく、更なる活動を開始するのですが、、、これまた話が長くなるので、別の機会でお伝えできればと思います。

学生団体での2年半を振り返って

夏は自転車で琵琶湖を一周しながら、活動資金を集めました。

"教育開発/協力に片足突っ込んだ大学生"としての2年半。もしかしたら「そんな"ぬるま湯サークル”の経験なんか、教育開発に指1本も触れてないわ!」と言われてしまうかもしれませんが、、、某感染症との闘いに翻弄され現地に赴くこともままならないそんな状況でも、それなりにプライドを持って、新たな施作に取り組み、論理的に問題解決を図ろうと努力していました。

そして海外大学院の出願資料に当然その経験を反映させましたが、そこで味わった苦難や不安定さは、文字で表現しきれない部分もありました。「この2年半薄っぺらかったのかな、、、」なんてことも一時期思いました。

そこで私は、周りの就活生友達に流されて自己分析を試みました。その結果、「教育開発/協力に関連する領域で、学生にしてはまぁまぁ分厚い経験をしたと言えるんじゃない?」と、逆に自信に変わってきたのです。それが、上に記載した私の4つの「こだわり」であり、得た経験を「魅力」に変換したアウトカムでした。

世間から見たら"ぬるま湯サークル"だったかも知れませんが、その中で「どう意識して、どんな取り組みを行ったのか」を改めて言語化した結果、自信につながり、結果にも繋がったというお話でした。次回は、「どんなキャリアを歩んできたのか」の後編として、国際NGOでの活動等をお届けしたいと思います。

…最後になりますが、前回の記事に少し補足させていただきます。

「超有名大学院に受かっちゃったフツーの大学生」という旨の少々センセーショナルなタイトルでしたが、私はあくまでも、それなりに恵まれている環境があってここまでの挑戦が出来ていることを十二分に認識しております。自分の夢へ突き進む自由をくれ、支えてくれる家族・友人等に最大限の感謝の思いで留学をする予定です。しかしながら、やはり「アイビーリーグの超有名大学院」というモノと共に紹介されるのは、例えば「帰国子女」や「富裕層」など圧倒的なバックグラウンドがあり、またその印象がつきやすいのも事実。そのレッテルやら経済力の差やらに、私は受験時代何度も悩まされてきました。だからこそ「田舎出身で公立の小・中・高等学校で特別なバックグラウンドがない」青年でも「合格」という一つの達成を得られたという事実が、今後何かしらの挑戦をされる読者の皆様に何らかの影響を与えられるのではないかと信じております。

加えて、これから発信する投稿ではもちろん大学院受験のTipsを共有できればと思いますが、それを発信のメインとする予定はございません。受験戦略に長け、大学院受験のノウハウに精通されている方は沢山いらっしゃいますので、手っ取り早く受験の情報が欲しいという方は、ぜひ他の方の受験体験記などをご活用いただきたいです。私の場合、今まで培った経験や情報をもとに、何が「成功」たらしめたのかを長々と描き、少しでも今までの蓄積がアウトプットできればいいな〜、それが誰かの有益な情報になったらいいな〜、という思いですので、元より「自己満」も含まていることをご承知願いたいと思います。以上、補足でした。


ご覧いただき、ありがとうございました。ごく稀ながら、留学や国際協力に関して呟いたりしておりますので、ご関心のある方はTwitterをフォローいただければと思います。



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