見出し画像

「大好き」

私には子供が2人います。今回は下の子のお話です。


次女は発達障害のひとつであるADHD(注意欠如多動症)の傾向があります。
不注意優勢型で、多動は強くありません。
なので、授業中に立ち歩いたりすることはありませんが、興味のないことは長時間集中できないしやる気をコントロールするのが難しく、授業内容があまり聞けていない・授業中するべき課題や提出物ができていないことが多いです。
忘れ物が多く、かと思うといらないものが入っていたり、随分前のお手紙が出てきたり、ランドセルはいつもカオスです。

発達検査では次女の知能は平均かそれより上なので、学習内容を理解することは難しくないのですが、授業ペースに自分を合わせられないため、普通に授業を受けているだけでは理解が追いつかなくなってしまいます。

幸い、次女の通う学校は通級による指導を行なっていて、次女もそこで個別の取り出し授業を受けています。

↑こちらに詳しく書かれています

この通級指導で補ってもらっているおかげで、次女は学力を維持することができています。


当然学習に困難があるだけではなく、集団行動も苦手です。

幼稚園や保育所から小学校、中学校と上がるにつれて少しずつみんな成長して、集団行動が取れるようになって行きますが、次女の場合、やはりその度合いが遅く同学年の子たちとの差が開いてきています。
彼女なりにもちろん成長はしているし、頭で理解はしているのですが、与えられた役割や班行動など勝手が許されない場面では周囲にしばしば迷惑をかけてしまいます。


次女は頭の回転が早く好きなことなら止めどなく早口で喋れますし、物覚えもいいです。雑学知識もボキャブラリーも豊富で好奇心も強いです。
また、本人がやる気さえ出せれば色々なことを難なくこなすことが出来るため、「出来ない」=「怠けている」と取られがちです。

つまり「誤解されやすい」「障害だとわかってもらえない」

発達障害の認知度は上がってきていますが、メディアで紹介されるのは一部の例に過ぎないし、発達持ちの人の抱える特性は十人十色で、「これ!」と決定的にわかりやすいものがあるわけではありません。

なので、身近にそういう人がいて知っているという人でない限り、まだまだ理解してもらいづらい現状があります。


幼児の頃の検診で発達障害の可能性を指摘されてから、私は可能な限りそれを理解しようと色々なことを調べたり、次女をよく観察し接し方や指導方法、周りに理解してもらうための工夫をしてきました。

これは本当にありがたいことなのですが、次女が通う地元の公立小学校とその併設の幼稚園では、発達障害の診断・未診断にかかわらず特性に偏りのある子への理解が進んでいて、今までものすごく助けて頂いてきました。
幼稚園から高学年に至る今まで、次女を否定するような言動や、面倒がる・うざったがるような先生はひとりもいらっしゃらなかったのです。

親の私でも正直しんどいなあ、と思うことが多々あるのだから、いつまでも細やかな配慮や声がけが必要な次女のことが疎ましく思えることがあってもおかしくないはずです。

でも先生方は、いつも次女に丁寧な対応をしてくださっています。
本当に感謝しかないです。

お友達にも本当に恵まれていて、親友というほどの子はいないまでも、嫌われたりはしていないようです。放課後約束する子もいます。(やはり集団行動や班・係の活動で迷惑をかけることはあるようですが…)

叱られることが多かったり友達とトラブルが多いと、学校が嫌になるケースもあると思いますが、次女は先生方と同級生たちの理解と協力のおかげで、今まで一度も、学校や友達を嫌だと言ったことはないのです。


時々先生と連絡を取ると、衝撃の事実(?)が発覚することもあり凹みます。

だいじょうぶって言ってたやん!?
あれ提出しといてって言ったやん!?
え、セロテープ随分前からないの?早く言うてよ!
先生、最近給食当番全然してなくてペアの子困ってるのに「ええよ」って1人で頑張ってたって言うてたよ!?一緒にせなあかんやん!!
図工の絵全然仕上げられてないって先生言うてはるやん!
1時間目大抵寝てるって!?起きろ〜〜〜〜〜!!

大丈夫じゃないやん〜!!

もう平謝りです。
でも先生はそれを「困ってるんです、なんとか家でも指導してください」と言うスタンスではなく、本当に報告してくれるだけなんです。
報告を受けた日は少し真剣に叱ったり話したりして、ちゃんとしなさいと言うと、翌日からしばらくは次女も本当に頑張るんです(長続きしませんが)。
そしたら先生が、「頑張ってました!お母さんが話して下さったおかげです!クラスの子たちも拍手して褒めてました!」とお礼を言ってくださるんですよ。

もう涙ちょちょぎれます。
先生、クラスメイトたち、みんなあったかい。


親として、周囲との関わりは一番の心配事です。
逆にいうと、発達に凸凹があって皆と同じように振る舞うことがしんどくても、存在が受け入れられているのであれば安心です。

でもやはり、私から不安や心配が消えることはありません。

好かれているかな?
迷惑はかけてないかな?
本人は楽しそうだけど周りが嫌がってることないかな?
次女のいいところをちゃんと見てもらえているかな?

先生も、言わないだけで、本当は面倒だなとか鬱陶しいなとか思ってないかな?


***


ある日、たまたま放課後私と次女でもう一度学校へ赴く機会がありました。
先生に用があったわけではありませんでしたが、少し聞きたいことがあったため、職員室の先生に声をかけ、廊下でお話をしていました。
話の流れからやっぱり私が知らなかった事実などが出てきて、驚き、謝り、次女にも「それはあかんで、ちゃんとせな(しないと)」と言いました。

でも話の中で先生は次女のいいところを褒めてもくださいます(いつもです)。


「次女ちゃんこないだも、夏に行った〇〇の話してくれて。」

あ、あの話ですね。ほんま嬉しそうやったんですよ。

「ほんと楽しそうに話すんですよ、面白い話いつもしてくれて。」

(水を得た魚のように話す姿が目に浮かびますw)

「優しいし面白いから嫌われたりとかは本当にないです!」

よかったです。いつもちゃんとしぃやと話してるんですがやっぱり先生にも周りの子にも迷惑かけること多くて申し訳ないです。

「ほんまにいい子で。お母さんがちゃんと育てて下さってるからほんまにいい子に育ってると思います。」

いやいや、そんな…
(この時点で泣きそうになる)


「お母さん、私次女ちゃん大好きなんですよ!」

それは、お世辞でも立場上でもない心からの言葉に思えました。

そしてもうひとつ忘れられない言葉を言ってくれました。

「次女ちゃんと、違う形で出逢いたかったです。」


先生と生徒ではなく。
指導とか、叱るとか、そういうことをしなくて済む、損得や上下のない友達みたいな関係として。

よく、祖父母や近所の人など責任のない立場だと可愛く見えるというのがありますが、先生がおっしゃってるのはそういうありきたりの言い方ではないなと感じました。

出そうになる涙を堪えながら、私は黙ってうなずいたのだったか、小さくありがとうございますと言ったのだったか。記憶が定かじゃありません。

先生は、次女の中身を、心を、優しさを、おもしろさを、ちゃんと見てくれて、好きだと言ってくれている。

常に次女の特性に対する自分の子育てを不安に思い、私が悪いんじゃないかと自信を失うことの多い私。
先生の言葉は、今まで抱えていたそういったものを全部吹き飛ばして、心の奥深くに優しい風を送り込んでくれました。


うん、先生。

私もね、次女と違う形で出逢いたかったです。

だって、この子面白いでしょ?かわいいでしょ?優しいでしょ?

ありがとうございます、そう言ってくれて。

私も、いい子に育ってくれてると思います。


***

まだまだ不安なことは多いです。
このままじゃ中学校や高校の勉強どうなるのかな。
バイトや就職、できるかな。
次女に合ったいい仕事見つかるかな。
できればありのままでいられるような、持ってる力を活かせるような、そんな職場が見つかるといいな。
周囲の人に恵まれればいいな。

でも不安になったときは、先生の言葉を思い出したい。

「次女ちゃん大好き」

いつまでも、そう言ってもらえるようなありのままの次女でいてくれればいいなと願わずにはいられません。



…しかしな、次女よ。
ええ子であること、ちゃんとした人間になることとは別やで。
ママをあんまり怒らせんほうがええぞ。
おんなじこと何回も言わすな〜!!

脱いだものを!洗濯カゴにちゃんと!入れろと!あれほど!
(どうやったら1枚も入らんとまわりにぜんぶ散らばせられるねん!)

あっ長女!(※中学生)お前もか!!
カゴに!入れるだけの!ことが!なぜ出来ん!!投げるな!!


…先は長いです(ため息)。

投げ銭いただければ感謝の舞を踊ります。 余裕ができたらカメラのレンズかカメラ本体を増やしたいです。