曖昧な境界
窓から山を眺めて仕事をすると、目が休まって良いかなーなんて考えているけれど、大して仕事なんてしちゃあいない。でもこういう境界の曖昧なところで過ごすのはかねてからの憧れでもあったし、好きだし、こんな世界が拡がっていけばなぁ、なんて考えていることの一つかも知れないな。ということでタイトルを今「目を休めながら」から「曖昧な境界」に変更した。ワークライフバランスで言うところのワークとライフの境界、住宅建築を考えたときのパブリックとプライベートの境界、デジタルとアナログの境界?とか、仕事と趣味の境界、とか?今軽く「曖昧な境界」とググってみたら、そこに魅力や興味を感じている人は結構いそうだなってことが確認できました。
と、向かいの自動車整備工場に目をやると、車を修理に持ってきた夫婦だろうか、二人して体を伸ばしていて気持ちが良さそうだ。なんだかとてもいい。
どっちつかずの、境目で暮らしていたい。どちらにも明確には属さずに、生きていたい。生きていれば、どちら側にいるときだってあるだろう。それは空間的にも、概念的にも。どっちと捉えられたっていいし、どっちの人たちにも仲間外れにされたっていい。瞬間、瞬間、その辺りにいる人たちと仲間意識は芽生えるのだろうし、離れていれば敵対関係にもなるだろう。
少なくとも、「格差が拡がっていくだろう」とか、ビジネスマンなのかクリエイターなのか分からないけれど何者かの立場で話すような人にはなりたくないみたいだ。その人はその立場や役割である前に一人のその人だろう。
いろんな世界に興味を持って飛び込んでいくことはとてもいいことだ。自分の子どもたちにもそれは促したいと思う。いろんな世界に飛び込んで、いろんな違和感を感じてくるといいだろう。その感じた違和感について自分で理解していくうちに、自分の過ごしたい場所が分かるようになってくるだろう。こんな40歳にもなってまだはっきりと見つけられていない大人がいるのだから、安心して生きてゆけ。
子どもがあつ森に飽きて「勉強をはじめるから場所を代わってくれ」と言ってきた。窓から見える景色を見て、「めっちゃいいなここ」と言う。お前の部屋になるところだ。どうだ、いいだろうこの曖昧な境界の世界は。おれはずっとこれからもこんな曖昧な境界の世界を探してはそこへ行って、いっつもフラフラして曖昧に生きてやる。だから散々憧れてくれ。「とーちゃんみたいにはなりたくない」と言いながら、散々憧れてくれ。
ここから先は
2020年の日記
ただの日記です。毎日書くわけではありません。不定期ですが、目標は「ほぼ毎日」です。40才。本厄。名刺の肩書きは「プランナー、ミュージシャン…
過去の日記
過去の日記、まとめました。2017年〜2020年くらいまでの、会社勤めをしていた頃の日記です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?