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パーソナル編集者とともに、半年間書くことに必死に向き合ってみた男の話

こんにちは。

半年間、みずのさんのパーソナル編集者を受けていました。

そして今月、無事に卒業を迎えた僕ですが、パーソナル編集者の受講期間中に感じたことをまとめておきたいと思います。

人の話を聞くのにむいていないと気づいて

みずのさんとの出会いは、「対話のコミュニティ」に参加したときのこと。当時、人と対話することが苦手だった僕が克服してみたいと思って飛び込んだコミュニティでした。

ストレングスファインダーなどを学びながら参加していたのですが、僕は半年で退会したのです。退会フォームには一行、こう書きました。「人の話を聞くのにむいていないと思ったため」

そこからしばらく退会したことよりも、退会した理由の言葉に、思い悩みます。「もっと重ねるべき言葉があったんじゃないか」「あまりに不義理な言葉だったんじゃないか」など。

そもそも、「なんで自分が人の話を聞くのにむいていない」と思ったのかなんですが、人の話を聞いていると、自分の頭の中にいくつかのエピソードが浮かぶのです。まるで自分の中の扉がいくつも開いて、そこから言葉が溢れてくるかのように。そして、それを相手に伝えたくなってしまうのです。

しかし、対話のレッスンをしているので、相手の言葉を聴かないといけない。それらのことを続けていると、自分の話したい欲を抑圧しながら聴いているので、「話を聴く」というスタンスではなく、「何かを言ってはいけない」というスタンスに徐々になっていきました。

そんな状態に陥った僕は、もはや錯乱状態。最終的には対話している相手に場をつなぐために、自分が思ってもいないことや、耳心地のいい言葉を発っしていたのです。平たくいうと、「嘘」をついてしまったのです。

その後、フィードバックで、対話していた相手が、「ユースケさんに、こう言われて本当に嬉しかった」と発言していたのを目の当たりにしたとき、とんでもないことをしてしまったかもしれない、と自責の念に駆られました。

そうして、退会フォームに書いた、あの一行の言葉に行きつきます。

それと同時に、いつしか自分が、自分のことを話したい欲があることに気づき、のちに、パーソナル編集者のサービスをお試しで受けて申し込みました。

自分の好きと向き合ってみる時間

「好きなものってなんですか?」

初回セッションのアイスブレイクで、みずのさんが僕にたずねます。しかし、僕は黙ってしまったのです。

「好きなものはなんですか?」という質問に対して、いつも相手を困らせてしまっているという実感がありました。

もし、本当に好きなものを話して相手が知らなかった場合、せっかく僕との最大公約数をみつける質問をしてくださったのに、それに応えることができなかった、という気持ちが先行してしまい、何も答えることができなくなってしまうのです。

仮に、僕の"本当に好きなもの”の話をしたとき、相手が知らなかったり、雑に扱われてしまったり、はたまた、「それが好きということは、こういう人なんじゃないか」とレッテルを貼られてしまったり、本当に自分が大切にしているものを差し出した瞬間に、大喜利のお題のように消費させられる可能性だってある。

そんなことを普段から思っていたものですから、「好きなものはなんですか?」という質問に、僕は思わず黙ってしまったのです。

もうおわかりいただけたと思うのですが、僕は面倒くさい人です。

「普段は、周りからどんな人だと言われますか?」という質問にも、僕は言葉を探してしまう。

「空想」「深読み」「考えすぎ」

言葉には出さなかったが、ノートの隅のほうに小さくメモしたのを今でも覚えている。

セッションを続けていくうちに、ひとつ気づいたことがある。

僕の中に、マインドAと、マインドBがいること。

マインドAとは、周りからこういうふうに思われたいと思う自分。
社会性といえば、わかりやすいのかもしれない。

このコミュニティになじむためには、酒はあまり好きではないけど、好きだということにしよう。麻雀もしないけど、役だけは覚えよう。タバコは吸わないけど、この人たちの前では持ち歩いたほうがいいだろう。

ドラゴンボールやキン肉マンの話をしても、いまの若い世代がわからないから話をするのをやめるように、僕は好きなものを語るとき、マインドAがハンドルをにぎり、それほど好きでもないけれど、きっとこの人の守備範囲なら拾ってくれるだろうというものを選んでいたことに気づいた。

では、マインドBの好きなものはなんだろう。
もちろん、これまで出会ってきた人たち、家族や友達、元カノなど、環境から影響を受けて好きになったものの方が多い。

ゼロから好きになったものの正体なんて、わかるはずがないんだけど、それでも、自分の頭のてっぺんから足の先までつらぬくようなものは、自分の中にあるのだろうか。

自分が愛を注いできたものを言語化できていないのに、自分のことを書いて発信したいなんて、なんて無謀だったのだろうと、少し恥ずかしくなった。

その日の最後、みずのさんから「愛マップを作ってみましょう」という、宿題が出された。もちろん、やるやらないは自由なんだけど、作成してみることにした。

その後、愛マップの作成に取りかかる。
のちにリスト化するのだが、少しだけこぼれ話がある。
実ははじめ、各カテゴリに最大3つまでと決めて書いていた。しかも、『リーガルハイ』と書いた後に、

「いや、リーガルハイでも全話好きって言えるのだろうか・・・? 
違うな。僕が好きだと言えるのは、シーズン1の3話だけだな」と、マインドBが出してきた好きなものを、マインドAが編集を加えていた。

そうして、好きなものが書かれているリストができた。そこには上から横線をひき予選落ちしたものがいくつも書かれている。

ある日、とがりにとがった愛マップを、対話のコミュニティに参加していた友人に見せた。すると、こう言われた。

「え、なんで上から横線で消してるんですか?たくさん書けばいいじゃない。消さなくていいじゃない。好きなものなんだから」

歯に衣着せぬとは、こういうときに使うのだろうか。
飾らないことばで、グサグサと僕がつくった愛マップについて伝えてくれる。

僕は思わず笑ってしまったのだが、本当にその通りだと思った。
好きなものを、わざわざ自分から消す必要はない。

「お前、本当に好きなんだろうな!」と自分に拳銃をつきつけていた僕からそれを取り上げた友人には感謝しているし、その後、愛マップに書かれていた本を読んでくれて感想を送ってくれたことは、残しておきたい思い出だ。

(↓そうして、できた愛マップはこんな感じ)

↓(愛マップのリストはこんな感じになった)

過去の自分を振り返ってみる時間

次回のセッションまでに、みずのさんがほぼ毎朝配信している「こたつラジオ」にゲストにお呼ばれしました。

その時間を充実させるために、「愛マップ」と同時に作成をはじめたのが、「自分年表」の作成だ。

0歳から、現在の年齢までで、「プライベートのこと」「学習・仕事のこと」「記憶で残っているエピソード」を一年単位で表にしてみることにした。

のちに、みずのさんから、「記憶が鮮明すぎてびっくりしてます」とメッセージがきた。

自慢ではないが、僕はどうでもいいことの記憶力がいい。
(昔受けたIQテストでも、記憶分野だけは満点だった。)

そのせいだろうか、できあがった自分年表をみたときに、あることに気づいた。学生時代の僕は、「ほんとうの自分」を理解してもらえないことに苦悩していたようだ。

ひとつだけエピソードを紹介。
10歳のときの記憶で、小学校の通知表に、「温厚な性格で〜」と記載されていたことがある。その文字を見た瞬間、僕は泣き出してしまった。「嘘」が書かれていると思ったのだ。

先生は、僕のことを見てくれていないのだ。「温厚」という文字の中に閉じ込められそうな感覚が体に走り、怖い思いをしてその場で泣き出してしまうような記憶を思い出す。

そのほかの年代でも、エピソードの形は違えど、比べられたり、あるカテゴリに閉じ込められそうになったり、自己評価と他者評価の違いに苦しんでいたことが、記されていた。

宝箱にも見える段ボールのような粗雑な箱に、僕はそれらの記憶を詰め込んでいたらしい。

愛マップの作成のときに感じた、マインドAとBの存在は、もしかしたら、ここからきているんかもしれない。と整理して改めてルーツをみつけた。

「書いてみてどうだったか」「どういうフィードバックを求めていますか」ということを記入することが、みずのさんとのゆるいルールとして決められた。

書いてみて思ったのだが、どこか僕はカウンセリングを受けている気分だった。自己発信のためになぜこんなことをしなければならないのだろうと思ったのだが、そもそも自分のことを発信したいのに、自分のことを理解していないのは、準備不足だと感じた。

自分で解決してきたものを見つめてみる時間

「もし、桃太郎がnoteクリエイターならどんな記事を書くと思いますか?」

昔、受講したワークショップのことを思い出す。

たとえば
・桃の中で暮らしていこうと思った10のこと
・親不在の生活の中で、忘れてはいけないこと
・鬼ヶ島に行きたくないための10の断り方
・犬アレルギーの克服の仕方
・暴れている猿の手懐け方
・キジにきび団子を食わせる方法について  など

では、自分ならどんな記事を書きますか?

2回目のセッションでは、具体的に何を書いていこうかという話をした。

今まで解決してきたことと、まだ解決していないけど書いてみたいもの。その二つの側面で、書きたい内容を考えてみる。

正直、いままで自分が解決してきたことなんてない。いや、あるんだろうが、解決しているがゆえに、もう自分の中から消えてしまっている可能性が高い。

自分年表を見つめていると、過去が立ち上がってくる。そして、複数のタイトルをみずのさんに送った。

その中のいくつかぐっときたものにコメントをつけてもらった。一部を紹介。

・ファッション音痴だった僕が15万円はらって、スタイリストについてもらった話→金額が絶妙。
・小学生のとき、字を小さくしたら比較される生きづらさ経験した話。 →これはもう、ばっちり読みたいです。ぜったいよい。
・家にいるのに、「帰りたい」とつぶやいてしまう →シンプルだけどいいテーマ。生活描写を細かくしてもよさそう

そして、僕が一番はじめに書いた記事はこちら。

特にピックアップされることもないのだが、今でも地道に読まれている。はじめに書いた記事が1万文字を超えて、自分でもびっくりした。

ファッションもいわば「ほんとうの自分とは?」を問われているような気がした。あるかもしれないし、ないかもしれない「ほんとう」という幻想が、僕が書くべきことなのかもしれないと感じはじめていた。

書けない自分を見つめる時間

3回目のセッションまでに、「週に一回更新する」ということを目指してみた。そして、まだ解決していないけど書いてみたいもの。さらに、自分をつくっているマンガについての記事もアップした。

正直、解決していないものを記事にするのは勇気がいった。今になってわかるのだが、書くということは、手放すことにつながるのかもしれない。未解決のものは、未解決のままなのだが、解決までいかなくても、解消されたような実感はある。

書くことは時間がかかるし、「こんなもの誰が読むんだろう」という言葉がずっと浮かんでくる。誰かのためなんて考えはじめたら、筆なんて何本も折りたくなる。だけど、ほんの少しの未来の自分のためなら、書いてもいいのかもしれないと思える。

しかし、結局、自分でたてた約束を守れたのは、3週間だけ。三日坊主ならぬ、三週間坊主。3回目のセッションの際に、書けない理由を、みずのさんに散々聞いてもらった。

「かけるといいですね」と、みずのさんはにこやかに言う。あ、これ以上僕にかける言葉はないのだなと深読みしてしまう。実際は、そんなことないのだと思うのだが、僕の特技は「空想と深読みと考えすぎ」だ。

書けない理由をあげたらいくつもある。だから、あえて口にしないことにした。そして、下記のことを意識するようにした。

・完璧じゃなくていい
・アップしてから編集してもいい
・まずは自分のために書けばいい

それらのことを意識しながら、僕は、意地でセッションの次の日に書き上げた。それがこちら。

この記事はピックアップもされ、多くの人の読まれることになった。「人の話を聞くことにむいていない」と思っていた自分への復讐みたいな記事なのだが、間違いなくパーソナル編集者がいなかったら書けていない記事だったと思う。

読んでもらった反応にしだいに書けなくなる時間

「どういうフィードバックを求めていますか?」

正直、僕はパーソナル編集者というサービスをうまく使えていなかったと思う。最新のiPhoneを買ったのにアプリもなにもダウンロードしないで、電話しているような、そんな感じだった。

「極端な話、ユースケさんって、フィードバックを求めてないですよね?」

ある日のセッションで、みずのさんに言われた。どきりとした。

そうなのだ。
これまでのフィードバックは、日本語の伝わり方や、タイトルの付け方、文章の導入など、技術的なフィードバックをしてもらっていたのだが、一通り終わると、それ以上のフィードバックを求めていないことに気づいていた。

ただ書ければいい。
目立つところで、踊りたくない。ただひっそり教室の隅の方で踊っていたい。だけど、ピックアップもされたし、もうちょっと真ん中のほうで踊ってみてもいいのかもしれない。そんな意識が芽生えていた。

その後、週に一回の更新を守りつつ、プラスして、週に一回の日記のダイジェストの更新もはじめた。別の講座ではあるが、日記を書くことにも取り組んでいた僕は、パーソナル編集者と合わせて、良い相乗効果が生まれていた。

また、いままで書いたエッセイのタイトルを付け直した。あまりにも閉じすぎている僕の記事は、タイトルを変えるだけで、もっと見つけてもらえるかもしれない、と言われ改めてマガジンでまとめることにした。

「note読んでます」など、リアルで会ったときに声をかけてくれたり、嬉しいことも増えた。そして、それをみずのさんに報告することが、なお嬉しいかった。自分ひとりでやっていたら、こんな感情にも出会わなかったと思う。

しかし、それらの反応が積み重なっていくにつれ、追い詰められたピッチャーのように、僕は書くフォームを崩しはじめていく。

そして、4月以降、僕は日記しか更新しなくなった。

記事を書きたいという思いはあるもの、書いた後の反応がちらついてしまう。ハートの数もコメント欄に表示されなくなったらいいのに。そんな風に思うくらい、僕は"くらっていた"。自分でも無意識だった。

下書きの数だけが増え続ける。
一番しんどかったのは、記事を公開していないのに、次のセッションがやってくることだった。

「一度、打ったホームランって、忘れられないですね」

僕は、思わず口にしていた。
結局僕は、自分の書きたいことや伝えたいこと以上に、反応がほしくなっていた。手軽に得られる承認のために、記事のテーマを選び、同じような書き味を目指してしまう。

あだち充作品に「H2」という漫画がある。
まぐれでホームランを打った一年生に、「忘れろ」と監督が言うシーンがあるのだが、いまならわかる。簡単には忘れられない。だって、うれしかったんだから。(H2では二打席目でもホームランになるんだけどね)

自分が書きたいことを考えているつもりだったのに、結局、社会に受け入れられそうなものを選んでしまう。愛マップづくりのときに感じていた、マインドAが、どこまで逃げても追いかけてくる。

ここ数ヶ月書いた、人とのコミュニケーションの話は、マインドBが書きたいと言えないかもしれない。記事への愛情は変わらないんだけどね。

正解がないものを書きたいと気付けた時間

半年間、書くことに向き合った僕の日々は、実に尻すぼみな感じで幕を閉じようとしている。

最後のセッションがはじまる。

実は、ここ最近、僕は、5000字を超える記事を書き上げたことを伝えた。
少しだけ内容をぼんやりさせていただくが、それは「自分がコンプレックスを乗り越えた」という内容のものなのだが、どうしてもアップする気になれなかった。

「書かなくていいことまで、書いちゃうかもね」
先日行われた文学フリマに、友人とともに出向き購入したものを眺めているときに、友人が発した一言。

自分の過ごしている日々や、身の回りに起こっていることで、たくさんお金が稼げるようになったり、承認が得られるようになったら、きっと書かなくていいことまで書いちゃうかもしれない。

友人の言ったその言葉が、自分のコンプレックスを赤裸々に書いた記事をアップさせる手を止めさせた。僕は、そこに書いてあることを背負うことができるだろうか。

他人から、決めつけられたり、カテゴリに閉じ込められたりするのが苦手なはずなのに、なぜ自分から、わかりやすい"取手のようなもの"を接着しようとしているのか。

何をやっても壁にぶちあたる。
それは、文章を書くことでも、仕事のことでも、恋愛のことでも、人の話を聴くことでも、それら全てのことで、同じような悩みにぶちあたる。

だけど、それは他人には理解してもらいにくい、小さな小さな悩みであるが、僕には歩みを止める大きな大きな悩みに感じている。

それらすべてのことを、パーソナル編集者であるみずのさんに話をきいてもらった。

「ユースケさんは、なんで日記は書けるんですか?」
みずのさんが僕に言葉をかける。

僕は考える。
前述したが、僕は週に一回、日記のダイジェストをアップしている。
とくに何か伝えたいこともない、読んで得することのない日記を、週に一回アップしている。

なんでだろう?
僕は、過去にアップした日記を見直しながら考えてみる。今年のはじめに書かれたものなんかは、もう忘れていることばかりだった。

その瞬間、忘れてしまうことが悲しく思えた。でも、きっとしばらくしたら、この悲しい思いも忘れてしまうのだから、もしかしたら悲しくないのかもしれない。

「本を読んでいる人は、本を読んでいない人を見下している」と、言われたことがある。僕は、月に5冊くらいは本を読む人間なので、全力で否定した。被害妄想だと思った。

でも、僕も、もしかしたら、書いているやつが一番えらくて、書いていないやつは、たいしたことがない。なんて被害妄想を僕もしていたのかもしれない。

日記は、ただ書き残しておきたいことを書いているだけで、正解も不正解もないから、書き続けられているんだと思う。

自分のために書いた日記から、ほかの人になら見せられる余分なところを抜粋して、みせているだけなのだ。

もしかしたら、僕は、自分のために記事を書けていなかったのかもしれない。

というか、昔の記事を読み返したら、自分でも気づいていたんだね。すっかり忘れていたね。

そうして、顔が晴れやかになったところで、半年間にわたるパーソナル編集者の期間が終了した。

「書く」というワンテーマで、本当にいろいろな話をしたし、話を聞いてもらった。

さいごに

なんでこの記事を書いたかというと、はじまった当初、パーソナル編集者をどうやって扱っていいのかわからなかったからなんです。同時期にはじめた身近な利用者の人に、「どういう話してる?」とこっそりヒアリングをしたりしていたんです。

僕には僕の悩みがあると思うし、きっとほかの利用者の人も、それぞれの接し方があるから、パーソナルなんだと改めて思う。

ここまで、どれだけの人が読んでいるかわかりませんが、長文をご覧いただきありがとうございました。

気づけば、8000字を超える記事になってしまいました。

担当してくださった、パーソナル編集者のみずのさん、どうもありがとうございました。(これでようやく、「書くこと」以外の話ができますね)

この記事を読んでくださった皆様が、自分から書きたいと思える文章に出会えますように。

おしまい。

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