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コンスタブル展のターナー作品

晴天の週末に、三菱一号館美術館で開催中の「テート美術館所蔵 コンスタブル展」に足を運んだ。

ジョン・コンスタブルは、同年代のターナーとともに、英国の風景画の地位向上におおきく貢献した19世紀の画家。この展覧会では、公式サイトの説明にあるとおり、1832年のロイヤルアカデミーの展示の一部が再現されており、もっとも話題性ある見どころになっている。以下、公式サイトより転載。

《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》は、ロイヤル・アカデミー展において、ターナーの《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》と並んで展示されました 。ターナーは寒色の銀色がかった自身の海景画が、燃えるような色彩を散りばめたコンスタブルの大型作品の隣に配されたことを知り、「ヴァーニシング・デー[最終仕上げの日]」と呼ばれる手直しの期間に、《ヘレヴーツリュイス》の右下方に鮮やかな赤色の塊を描き加えてブイの形に仕立て上げ、一気に観客の視線を自作に引きつけようと画策したのです。 後日コンスタブルは、「ターナーはここにやってきて、銃をぶっ放していったよ」とこぼしたと伝えられます。

コンスタブルとターナーのライバル関係を象徴するようなこの逸話は、芸術新潮3月号でも取りあげられていた。両作品の大小関係が、展覧会の図録よりも芸術新潮の方が実際に近いので、こちらの写真を載せておく。

前評判や宣伝から、もっとターナーとの関係を引っ張った展示構成なのかと思っていたけど、意外とあっさりしていた。ほかにも良い作品がたくさん集められていて、この展示は話題作りの一つに過ぎない。コンスタブルの回顧展なのだから、当然のことなんだけど。

この《ウォータールー橋の開通式》は、自然豊かな風景画を多く描いたコンスタブルにしては、意外な題材。解説によると、15年もかかったらしい。ウォータールー(ワーテルロー)の戦い後の復興の祝典。画中にロイヤルアカデミー本拠地のサマセット・ハウスが描かれていたりと、政治的な意図を感じてしまう作品だ。

悪あがきともとれるターナーのブイ加筆のこともあって、1832年の”対決”では、このコンスタブル作品を評価する声が多い(気がする)。しかし、わたしには、この作品がどこか痛々しく思える。リズミカルに配置された、船上の旗や人物の赤色と、大きな画面サイズに救われているものの、コンスタブルの風景画に特徴的な、俯瞰した奥行きのある構成が弱い。そのうえ、筆致ももたついて見える。なにより、この慣れない題材に15年もかけたという事実が、画家の迷いを物語っている。

厳しい見かたかもしれないけれど、わたしの眼にはそう映った。もちろん、「15年の歳月を費やして完成させた渾身作」と評価する人がいることは理解できる。

ただ、もし自分がこれを描いていたとしたら・・・、作品の出来に満足がゆかず、”完成”とする妥協点を探しながら、迷いに迷っていたとしたら・・・、展覧会の締め切りを口実に、終わらせたくなると思う。絵描きの端くれとしては、15年と聞くと、そのぐらいの期間のように思えてしまう。

こう書くと、コンスタブルの批判に聞こえるかもしれないけど、それは誤解。ほかの自然豊かな風景画が素晴らしいのだ。橋の開通の式典は、コンスタブルとしてはかなり異例のテーマ。画家の本領を発揮するには挑戦的で、持ち味を魅せるのには不向きだった。それだけのことだと思う。

この展覧会は、コンスタブルの生涯を時系列で丁寧に追い、彼の絵画観を浮き彫りにする展示になっている。このロイヤルアカデミーの”対決”は、ひとつのエピソードとしてコンスタブルの業績に花を添えているに過ぎないのではないか。全体の観賞したあとには、そのように感じた。

展覧会全体について書きたいけど、長くなりそうなので、ここでは話をこの”対決”にもどす。ほかの作品については、あらためて別のエントリで書くつもり。

一方のターナー作品《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》は、コンスタブルの大作に比べると、小さく、色も少なくてシンプル。隣に並んだコンスタブルの大作に力負けする?! ターナーほどの巨匠でも心配になるのか。公募展の審査で、大きな方が有利なのと同じ道理だ。

この画像は、作品を所蔵している東京富士美術館のアーカイブより拝借。

コンスタブルが不慣れな題材を描いたのに対し、こちらは、ターナー得意の海景画。テーマは、1688年の名誉革命にちなむ。オラニエ公ウィレム(イングランドではウィリアム3世)が、オランダから出航したときの様子を描いたものだ。

船の進行方向が明るく、スポットライトのように照らされているのは、新しい君主を祝福する意味があるのだろう。しかしながら、天候は穏やかとはいえず、前景の水面はおおきくうねって、船は傾いている。光の効果と空気感に動きがくわわって、ターナーの本領発揮というところ。もともと描かれていなかった赤いブイも、なんだかプカプカ揺れているように見えてくる。

もしターナーが、隣のコンスタブル作品を意識していなかったら、ブイは描かれなかったかもしれない。いや、もしかしたらターナー自身、なにか物足りなさを感じたまま出品していたかもしれない。ライバル意識が、その物足りなさが何だったのかという気づきを与えたか。作品の完成度は意外なところからあがるものだ。

6年ほど前に、映画《ターナー、光に愛を求めて(原題 Mr. Turner)》を観た。19世紀の英国とターナーの世界観を見事に映像化した映画だ。その中でも、この”対決”はハイライトのひとつだった。

この映画では、ターナーは繊細ながらも粗暴な人物としてえがかれていた。件のシーンでは、ライバルのコンスタブルに猛烈に嫉妬し、その嫉妬心をぶつけるように赤い絵の具をねじ込んでブイを描いていた。

ターナーが新たな表現に大胆に挑み続けたところが、映画での演出には、ワイルドな人物像がマッチしたのだろう。実際にどのような人物だったのかはわからない。いま実際にそのときを再現した展示を前にすると、感情的に絵の具を塗りつけたとは思えない、冷静な判断だったんじゃないかと思える。

・・・なんだか、今回のnoteの着地点がわからなくなってきた。ので、この絵について脱線して終わることにする。

旗マニアとして、このターナーの作品の帆船の旗は、気になるところ。とうぜん目を凝らして観た。

中央のユトレヒトシティ号のマストにある旗は、上下にわかれた二色旗のようにみえる。しかし、オランダ国旗は赤白青の三色旗。ユトレヒト州旗は二色で左上のカントンに十字があるのだけど、赤白が逆だ。下に短い旗があるけど、その形状から信号旗かも?信号旗なら出航を意味する青い縁取りだろうけど、そうは見えない。中央になにかがあるようにも見えるけど、不明瞭。謎だ。

ターナーは、ウィレム公が英国に到着した際の様子も、似たような構図で描いている。同じ1832年のことだ。それはテート・ブリテンの方に収蔵されている。

テート・ブリテンのウェブアーカイブを見ると、異なる旗が掲げられているようにみえる。帆船の規模からすると、奥の船が軍艦。マストの先の旗は三色のオランダ国旗のようだ。手前の小型船のてっぺんにも、三色旗があるか。いずれにせよ三色旗だとしたら、赤いブイの絵の旗は、一番下の青が空と同化しているということなのかも。

ちなみに、三色旗の下にある旗は不明瞭。小型船には大きな白い旗があるけど、獅子の盾と王冠の紋章が描かれている。まったく同じ紋章は、わたしの手もとの資料からは見つからなかった。けど、常識的に考えて、この大きな白い旗は、ウィレム王子の存在を示す意匠とみて間違いない。このアーカイブの解説には、王子はヨットに乗っているとある。英蘭戦争についてのターナーの政治的なメッセージもあるという。思いのほか、事情は複雑なようだ。

旗はさておき、この絵も、うねった海面が前景に描かれている。出航時よりも荒れている。この作品の右手前にもブイらしきものがみえる。こちらのブイは黒くて、輪がついているようだ。ブイに関する説明はみあたらないけど、これって、あの赤いブイと対をなしているんじゃないかな。

わたしの予想は間違っているかもしれない。けれど、もし赤いブイからの連想で、この黒いブイも描かれたのだとしたら、ライバル画家との展示の巡り合わせが生み出した一連の作品ということになる。なにがどうつながっていくのか、思いもよらないところが、とてもおもしろい。こういうつながりは、きっと、まだまだあるんだろう。どこかで見つけたら、またnoteに書こうかな。


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