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本土の老健施設にいた車椅子の美江子さんが、宝島に帰ってきたときの話

2011年5月、大きな転機を迎える。4月から、24時間での支援体制が始まっていたが、まだお泊まりの利用はなかった。そんな頃、鹿児島の老健施設に入所されていた美江子さんが島に戻ってくる話が持ち上がった。小宝島出身だった美江子さんだが、隣の島の宝島は昔からの兄弟島。娘が嫁いでいる島でもあった。その娘はスタッフのあつ子さんでもある。美江子さんは、数年前に倒れて、片麻痺、車椅子で暮らされていた。当時、宝島で車椅子で生活されている方はいなかった。
下記、日誌より引用。

少しずつ美江子様の受け入れ体制を整えている。コミセンでの事業に対して、地域住民から、厳しい意見も出てくる。捉えようによっては助言ともなり得るが、苦情とも捉えられる。自分としては、宝島で生活し続けたい人を支えたいという想いに、変わりはない。
 しかし、色々な場面で、借りている場所についての許可を得ることは、関係性という点でも大事なことでもあるが、ストレスでもある。地域性と言えばそれまでだが、自分のしていることの方向性が間違っているのか、迷うことがある。現状を知り、遠く離れたところでも、島で生きていく人々のことを考え、行動に移そうとする人間が多くいなければ、何も変わらないと思う。
 島民も行政も事業所も一緒になって、皆で住みやすい社会を作っていきたい。そんなきれいごとのようなことが言えなくなったら、私がここで生活する意味がなくなるだろうと思う。 

課題は山積みだった。

事業を行なっている公共施設には、入浴施設もバリアフリーのトイレもない。段差ばかりの居住空間。そもそも、住むために整備された部屋ではない。休まれるときは、6畳二間の部屋でついたて障子を立てて、夜間の見守りをする予定だった。自分もまだ、受け入れられるか確信が持てずにいた。それでも、黒岩さんはできると信じて、話を進めてくれていた。「くれいてた」と書けば聞こえが良いが、現場としては焦りの方が大きかった。もちろん、ご家族も不安だっただろうと思う。

受け入れに対して前向きになりきれない、不安…そんな気持ちだったから、出張員の哲也さんへの連絡が遅れていた。哲也さんは、役場の出張員であり、宝島での様々な事業の窓口になっていた。これまでも、何でも最初に相談してきた人だった。僕から直接、哲也さんに相談しておくべきことが、違うルートで哲也さんの耳に入ったことが、逆鱗に触れてしまった。そもそも、間借りしている公共施設内に出張所があるのだが、頼ってばかりだった哲也さんに、大事なところで相談できていなかったことを反省した。

それでも、文中にある車椅子用の簡易トイレを設置するのに協力してくれたのは哲也さんだった。そして、温泉施設の介助での利用をアナウンスしてくれた、当時の自治会長は、初めて泊まった民宿の直志さんだった。事業所の引越しが予定されていたが、まだ少し時間がかかる見通しだった。

おかえり、美江子さん

美江子さんが島に帰ってきた日は、僕が初めて宝島に遊びに来た日から、ちょうど1年が過ぎた、5月初旬だった。その日は大雨で、フェリーのランプウェイから送迎車で乗り込み、挨拶も手短かに、船内で車椅子から移乗。13時間以上の船旅は、疲れていたことだろう。ちょうど、シマさんのお誕生日で、合わせて歓迎会も行ったのを覚えている。

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美江子さんを受け入れるにあたり、前もって情報をもらっていた。好き嫌いが多く、「ごはんですよ!(のりの佃煮)」でしか、ご飯を食べないとか、すぐ感情的になるとか、とろみをつけた飲み物しか飲まないとか、聞いていた。

でも、環境で人は変わる。島に帰ってきた魚が大好きな美江子さんは、帰ってきてすぐに刺身を食べられた。捌いたのが僕で上手に切れていない刺身だったけど、美味しそうに食べてくれた。

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いつもは事業所に来なかった地域の方が、縁のある美江子さんに会いにきてくれることも増え、穏やかに過ごされた。とろみをつけた飲み物を飲まれていたが、あっという間に普通のお茶を飲まれるようになった。暮らしが人を変える。けど変わらないものある。濃い味がお好きな美江子さんは、相変わらずだった。いつか美江子さんの食事についても書こうと思う。

僕の大きな反省の一つ

僕の大きな反省の一つがある。美江子さんが利用していた鹿児島の施設では、夜間はおむつで過ごされていた。美江子さんが「夜もトイレに行きたい」という想いを知るまで、それを続けてしまっていたことだ。無意識で排尿するわけだはないから、オムツでおしっこをすると目が覚める。もっと早く気付ければ…

当時の様子が掲載された新聞記事

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