嫌いと無関心の狭間
2015年7月5日の日記より。
オーストラリア、アデレードのバックパッカーに滞在していた時の話ですね。
何事も記録しておくものなのかな。
誰も得しない気もするが、ハッとする人もいるのかな。
嫌いな人がいる(アラサーワーホリ日本人女性)。
Je déteste une femme qui vit dans un backpacker à Adélaïde.
自惚れが激しく、他人を見下したような口ぶり。
深夜まで下品に大声で笑い、騒ぐ。
アジア系の他の客に対する、やや差別的な発言もする。
Elle a tenu des propos haineux à l'égard des étrangers.
いるんだよね。他人を見下すことで、自分の平静を保つタイプ。
印象に残っているのは、
「ワーホリに来ている元社会人の男子とか何なの?ガッツリ英語を話せるようになるとか、前職商社とかじゃないと人生詰んでるでしょ。」
この方の価値観に反論する気は毛頭ないのだが、
こういう発言は、今では炎上案件だ。
Je n'accepte jamais rien de sa valeur.
嫌いという感情は、好きと似ているという話を良く聞くし、的を射ていると思う。
嫌いだった物を突然好きになることはしばしばあるし、逆もまた然り。
ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサは、愛の対義語は無関心だと言う。
この考えにも同意する。
無関心ほど冷たい感情は無いのではないか、とさえ思う。
"それがあろうが無かろうが、自分には全く関係が無いです。"
という感じか。
嫌うということにも幾らかエネルギーが必要で、
時々、そんな自分に疲れてしまう。
実感としては、その人には全く何の興味も無いし、こちらから話しかける気も毛頭ないのだが、無関心にはなれない。
同じ国籍で、その人が大声で話している言葉を理解してしまうからなのか。
日本の恥を異国の地で撒き散らしているからなのか。
五感の中でも聴覚と嗅覚は厄介で、なかなか防ぎようがない。
結論としては、難しいことはあまり考え過ぎず、感性の赴くままに生きていければええやん。
結局、ワーホリなんて手段でしかない。
異国の地に身を置き、異文化に触れ、外国語を駆使して生活し、ひとと交流し、自分の価値観を見つめなおす。
目的があってもなくても、その人の人生の時間なんだから、否定されるものではない。
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