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こんぶ思考


1,昆布とは?
 「昆布出汁ってどんな味? 」と聞かれて皆さんは上手く答えられますか?

 皆さんは昆布の味や香りを他人にどのように説明できますか。恐らく、上手い言葉を見付けられないのではないでしょうか。或いはそれほど意識してこなかったという人もおられるでしょう。実は私も二十年の間、納得のいく答えを見付けられないでいました。その間、料理をしながら思い出しては何度も考え続けてきました。

 この記事では、
・何故、日本料理には昆布出汁が使われるのか?
・昆布に含まれるグルタミン酸によって快を得るだけでなく、何故、様々な感覚が感情だけでなく意識の方向までも変えるのか?
について、昆布の持つ味、香り、形、色に着目して考えていきます。

 店では毎日出汁をとります。昆布と水を入れた大鍋を火にかけて、沸騰する手前で火を止め、鰹節を入れます。その時の鰹の香りに比べて昆布の香りは何とも頼りないのです。若い頃、昆布出汁を味見させてもらっても、味はほんのりと甘くまったりとしているだけに感じられて、これが重要なのだと聞かされても何とも言えない気持ちになったものでした。昆布とは私にとって苦手なものであり、理解の糸口さえ掴めないほど分かり辛いものだったのです。しかし、この二十年の内に時折、強烈な印象を残してくれる存在でもありました。その度に、私は強く関心を惹きよせられ考えさせられました。そのエピソードを幾つか紹介します。

 京都の料亭で修業をしていた若い頃の話です。京料理では里芋(小芋)は頻繁に登場する馴染み深い食材です。この里芋を冬場に炊く時は鰹と昆布でとった合わせ出汁に追いがつおをします。
 ※追いがつおとはリードペーパーなどで鰹節を包んで出汁に入れ、鰹の味や風味を付加することです。

 これをすることによって、冬場の寒い時期に、鰹節の爽快な香りが心身の緊張をほぐしてくれ、甘めに味付けした里芋がコク深くなり、里芋特有の粘りが優しさとなって普段意識できない全身の深いところまでゆっくりと染みわたって感じられていくのです。


里芋饅頭 蟹餡掛け
炊いた里芋を裏ごして丸にし、衣には砕いたおかきをまぶし、油で揚げます



 因みに京野菜で有名な海老芋を炊く時も同じように炊きますが、海老芋を試食させてもらった時は更に驚かされたものです。
 修業時代に里芋や海老芋の炊いた料理を試食させてもらった時の感動は今でも忘れられません。なんという奥深い優しさだろうと感じました。若い頃は野菜の料理よりも圧倒的に魚の料理に関心がありました。魚を上手に捌いたり、美しい造りにすることの方が格好良く見えていたのです。しかし、若い頃に味見させてもらった里芋や海老芋の炊いたものはその志向を覆すほど美味しかったのです。

 夏になると、それまで見てきた里芋よりも随分小さな里芋が入荷しました。親指の第一関節くらいの大きさです。この里芋のもじゃもじゃとした皮をむしり取り、大方きれいにすると、今度は濡れ布巾でゴシゴシ擦って完全に皮を除きます。そうして真っ白になった丸い里芋を湯がいて冷まし、味を付けて炊くのです。私は手帳をめくり復讐をしていました。

「里芋の炊き方はもう知っているぞ」

と思っていたのです。ところがです。煮方の職人さんは里芋を炊いている鍋に追いがつおではなく、差し昆布をしたのです。
 ※差し昆布とは適当な大きさに切った昆布を付加することです。

 私は「あれっ」と、疑問を憶え、後に時間を見付けて若い先輩に尋ねました。すると、忙しそうにしていた先輩は、
「夏場は差し昆布で、冬場は追いがつおや。」
と言い放ち、自分の仕事を進めるのです。私がもどかしそうにもう一度尋ねると、
「そういうもんや」
と説明にもならない説明をしてくれただけでした。ただ、先輩ももどかしそうな表情を浮かべていました。しかし仕事が終わり、煮方の職人さんが帰られた後に、その先輩は私のところまで来て、「食べてみるか?」と声をかけてくれたのです。先輩と二人でこっそりと試食という名目で摘まみ食いをしました。二人の感想はともに、追いがつおをした冬場の炊き方の方が美味しいというものでした。それは冬場の炊き方では砂糖を使って甘めに炊いているのに対して、夏場の炊き方ではお吸い物程度の淡い味付けだったこともあったかと思います。味付けの違いの理由は先輩にも分からないようでした。


お盆を過ぎて出回る小さな里芋を半月に形作り、差し昆布をして炊いたもの

 どうして夏場にはこのような味付けをするのだろうと改めて疑問を抱きました。しかし修業時代に何者かになろうと生き急いでいた「鰹なる私」は、このことを頭で考え、頭が納得する確かな答えを得ようと心を逸らせ、結局分からず仕舞いに終わったのでした。何者かになろうと必死で生きていたものですから、いくら考えても分からない事柄を前にして、分厚い壁が現れたように感じたものです。そして大きな焦りを感じました。

「自分にはセンスがないのではないか」

と自分の才能を無意識に疑いました。そしてそれは後に確かにセンスが無かったのだと理解したのです。
 技術を身に付けるというような、答えが専門書や目の前にあることであれば、難なく頑張れましたが、このような答えの見当たらないことに関しては気長に構えていくしか方法がないことを何となく分かっていたのかもしれません。当時の私は無意識の内に目を背け、無かったことにしたのです。

 また別な話もあります。
それは自分の店を開いてからの話です。何年前の出来事であったかは定かではありませんが、開店して数年後くらいだったと思います。私は普段、お酒は殆ど飲みませんが、その日は先輩と久しぶりに飲みに行きました。
 
 二件、三件とハシゴして三件目の店を出て解散しようかという時でした。私はお酒に弱く、それに久しぶりでもあったため、意識はありましたがかなり酔っていました。お酒に強い先輩も三件も梯子をすると、さすがに酔っているようでした。
 その店の女将さんに勘定をお願いして席で待っていると、お茶を出してくれました。そのお茶を無造作に二人して飲んで思わず、

「旨っ! 」

と、同時に叫んでしまったのです。そのお茶が昆布茶でした。

 私たちは二人とも昆布茶くらいは飲んだことはあります。なにも初めて飲んだわけではないのです。しかしそれでも私たちは、
「このお茶、なんでこんなに旨いんや」
と、何度も驚きの言葉を漏らしたのでした。

 その時、酒に酔って宙を漂うように浮遊していた私の視点は、目に見えない力によって支えられたかのように一点に定まり視界が明るくなったように感じました。ふわふわとしていた意識もシャキッと覚醒したのです。

 この時の私たちの瞳孔は昆布茶を飲んだことで散瞳(瞳孔が開く)したのだと思います。それは自律神経系の交感神経の活動が副交感神経の活動より優位になっている状態であり、これを生理学的には「闘争または逃走反応」と呼ぶようです。つまり、体の内部環境が「体の活動に適した状況」を作ったということです。

 私は料理の職人ですので当然ながら関心を持ちました。ですので、もう一杯いただけませんかとお願いをしました。すると、女将さんは、

「少し飲むから美味しいのですよ。でもまぁ、試しにお出ししましょうか」

と言って二杯目を出してくれました。何とかしてこの美味しさの秘密に迫りたいと思い、昆布茶を再び口にしましたが、今度は先程の美味しさはどこへ行ってしまったのだろうと愕然とさせられたのです。何故なら二杯目の昆布茶はとても渋くごわごわとして感じられたのです。その渋さに加えて甘味と酸味が後を引いており気持ち悪く感じられるのです。口の中が皺枯れたような感覚でした。

 その感覚から脳裏に浮かんだものは、落ち葉を散らし、無残にも幹を剝き出しにしている冬の落葉樹でした。そしてその光景に、普段毎日触っている出汁用の昆布が重なり、そこに行き詰った感覚を憶えたのです。その後、女将さんがほうじ茶を出してくれたことで、私は干からびた感覚から解放されました。
 これらの事はその後ずっと私の頭と心から離れませんでした。そして、思い出す度に急かされるように考え続けてきたのです。
 

 

2,昆布なるもの


 昆布の味や香りは先述したように分かり辛いものです。同様に昆布なるものも分かり辛いものになります。分かり辛いとは情報が表象化されておらず理解し辛いということです。私は煮方仕事を覚え始めた頃、昆布は本当に役立っているのだろうかと疑念を抱くことがありました。それもやはり、鰹節や貝や椎茸などに比べてその度合いが計りづらかったからだと思います。

 どうすれば昆布が与えてくれる感覚をはっきりと認識できるのでしょうか。そしてその感覚は私たちの存在をどのように導いてくれるのでしょうか。


利尻昆布と佃煮



 昆布料理といえば、私の場合、真っ先に佃煮が思い浮かびます。その他には、はやや諸子といった小さな川魚を昆布巻きにした料理や、穴子や鮟鱇の肝を昆布で巻いて長時間かけて柔らかく甘辛く炊く料理などもあります。お節料理にはそのような料理が入っているでしょうし、皆さんも一度は食べられたことはあるでしょう。

 身近な料理である佃煮などは好んで食べられるかと思います。しかし私も同様ですが、昆布料理の多くは黒く艶々としており、食べる人に美味しさの良く分からない、或いは古臭い印象を与えてきます。おばあちゃんの家に行くと決まって出される茶色い料理と同じく手を伸ばそうという気になれません。ぜんまい、切り干し大根、ひじきの炊いたものなどはその最たるものだと思います。

 お腹がすいて、ご馳走を期待して覗いた食卓にこのような料理が並んでいると、落胆した経験が一度はあるのではないでしょうか。兎に角「旨いもの」=「鰹なる料理」を食べたい欲求に駆られている時、こういった料理を目の前にすると、前へ前へと急いた心に躓きを感じるのではないでしょうか。その躓きに私は小さな頃、
「えぇー。なんでこんなご飯なん!」
と、落胆し腹を立て母親に文句を言ったことを覚えています。

 昆布なるものの定義は以下のようになります。

  1. 自律神経系の副交感神経が優位な状態で快を得る物事

  2. 科学的な解明や検証が不十分な物事、一般化していない知識

  3. 高い体性機能が求められる物事

定義に当てはまるものは個人差があり、また個においても流動的になります。
先述したエピソードを当てはめると、
差し昆布をした里芋料理は昆布なる料理であり、
昆布茶は鰹なる料理になります。

 上記の定義を料理に当て嵌めた場合に、以下にもう少し具体的に鰹なる料理と昆布なる料理の違いを見ていきます。

 ①、感覚(感性)視点
 ・鰹なる料理は体の内部環境が「体の活動に適した状況」を整える料理であり、それは痛みを感じたり、精神的に興奮した場合である。つまり、体が臨戦態勢を整えるということです。
 四大味覚では塩味と酸味が相当し、痛覚で感知する辛味も当てはまる。また、交感神経が優位な状態は「闘争または逃走反応」と呼ぶようですが、塩味と辛味は外部状況への闘争反応、酸味は外部状況からの逃走反応を起こす。
 加えて、舌筋周辺の筋肉の緊張と弛緩の動きが早い料理でもある。

 それに比べると、
 ・副交感神経の活動が高まる生体の反応は「休息と消化の反応」と呼ばれるようです。昆布なる料理を摂ると、体の内部環境で「次の活動に備える状況」がつくられます。つまり、リラックスしたり眠くなったりします。
 四大味覚では甘味と苦味が相当します。どちらの味もゆっくりと感じられ、長い余韻を持ちます。これは意識が体の内部環境に向けられる時間が塩味や酸味に比べて、その分だけ長くなるということです。
 昆布なる料理に使われる食材は食物繊維の豊富なものが多く、良く噛み時間をかけて味わうこと(五感を使うこと)にも能動性を求められる。これも意識が内部環境に向けられていることになります。
 舌筋周辺の筋肉の緊張と弛緩の動きが緩やかな料理でもある。

※昆布には脳を活性化させるグルタミン酸が含まれていますが、それでも昆布料理が副交感神経の働きを優位にすると述べるのは、あくまでも総合的な反応について述べているためです。うま味調味料となったもの、うま味調味料の入った加工品は鰹なる料理に分類しています。

 ②、知性視点
 ・鰹なる料理は価値が一般化されていることによって知性を働かせる必要が低い。良く知っている料理であれば学習した記憶が受動的に呼び起こされる。
 交感神経が優位な状態であるため、学習に関係する。

 それに対して、
 ・昆布なる料理には古臭く馴染みのない料理が多く、その価値や情報を能動的に探る必要がある。つまり自分なりの研究が求められる。
 副交感神経が優位な状態であるため、思い付きやひらめきを得られやすくなる。研究に関係する。
 鮎の姿焼きはどのようにすれば上手く骨を抜けるのか、土瓶蒸しはどの順番に食べるのが最も美味しさが分かるのか、蟹料理はどのようにすれば身が上手くほぐせるのかを思い巡らせるのではないでしょうか。

③、体性視点
 ・鰹なる料理はファストフードのように食べやすい形で提供されているため、求められる体性機能は低い場合が多い。

 それに対して、
 ・昆布なる料理には高い体性機能が求められる場合が少なくない。煮豆、鰈の煮付けなどには箸を上手く使うことを求められる。青菜のように繊維の多い食材、煮干しのように硬い食材には嚙む力と回数が求められる。
 ・消化と吸収に時間の掛かる状態(料理)で口にする場合が多い。

※鰹出汁と昆布出汁が交感神経と副交感神経のどちらを優位に働かせるのかということについては、私は以下のように考えています。ただし、これは鰹節に含まれるイノシン酸、昆布に含まれるグルタミン酸についての考えではありません。あくまでも出汁に対する考察です。

 ・鰹出汁は交感神経を優位にする
 出汁ですので様々な呈味が含まれていますが、やはり鰹出汁の特徴である酸味がちな香りと味は拡散的で感じるスピードが早いことが挙げられます。また時間経過によりうま味は酸味へと変化することも挙げられます。

 ・昆布出汁は副交感神経を優位にする
 これも様々な呈味が含まれていますが、昆布出汁の特徴は甘味にあり、ゆっくりと糸を引くような余韻のある動きを見せることが挙げられます。また香りも同様の動きを見せます。加えて、昆布出汁の甘味は時間経過により苦味に変化し、この変化のスピードが鰹出汁の変化よりもゆっくりである点も挙げられます。
 


3,自己の存在の認識

 私は初めての修業先でこの昆布の佃煮を二年もの間、刻み続けた経験があります。修業先の店の本店は京都にあり有名な高級店でしたが、私が当初勤めた大阪の支店はリーズナブルな価格帯の店でした。その為、食材費を規定の数値に収めることが難しく、少しでも原価率を下げるべく、私の担当する漬物料理の一種は春夏秋冬、昆布の佃煮でした。

 週に一度、数日分もの出汁をとった後の昆布を煮方に取りに行き、ただ只管、無心になって千切りにしました。昆布は部分によっては艶々としていたり、逆にざらざらとしていたりして、何枚か重ねて刻めるところもありましたが、中には表面が蕩けてぬめぬめとしており、重ねて刻むのが難しいところもありました。それが大量にあるのです。刻んでも、刻んでも終わりが見えてきません。まさに昆布地獄でした。今思い出しても胸中に鬱屈とした感覚が甦ります。
 
 刻み終えた昆布は煮方に回します。そこで煮方の職人さんによって何時間もかけて柔らかく炊かれました。大きな鍋にたっぷりの酒と水、少量の酢を入れて、二時間ほど昆布が柔らかくなるまでコトコトと静かに炊きます。そうして柔らかくしてから少しずつ味付けをして、味を含ませながら煮詰めていくのです。それは気の遠くなる時間です。
 作り方を覚えようと、自分の仕事をこなす傍ら、煮方に目をやっては、どのタイミングでそれぞれの調味料を入れていくのだろうと一生懸命に盗み見しました。しかしあまりの長時間に神経が疲れへとへとになったのを今でも覚えています。昆布を料理するには細く長く付き合っていかなければならないのです。鰹なる料理とは真逆なのです。

 そうして料理された昆布の佃煮は賄いでご飯のお供にできました。賄いはいつも大急ぎで食べていましたが、その忙しい中にあっても時折私は昆布の佃煮に対する理解を深めようと考えていました。しかし昆布は何かが合理的に詰め込まれたかのような、濃く黒光りした重々しい姿と確かな食感で私の思考を圧してきました。しかし佃煮をご飯の上に乗せ、味を無意識に想像すると、その瞬間から不思議と心は落ち着くのです。この世界に居場所を見つけたような、或いは根付いたような安心を憶えさせてくれました。それは私の自意識の中で、自分の存在や状態がこの世界で絶対的に認められ確かに根付いていると思わせてくれるリラックスした感覚です。早く賄いを食べ終えて次の仕事をこなしていかなければならない、そんな逸った心を落ち着かせてくれたのです。
 
 昆布なる料理は自分の存在が大きな概念と同期していく感覚、大いなる存在と一体となった揺るぎない安心感を与えてくれるのです。

 その修業先では営業中の注文の入る中、大量の昆布を刻まなければなりませんでした。手を動かし少し刻んだかと思うと、注文が入り中断する。それを何度も繰り返しながらやっとの思いでやり遂げるのです。つまり、意識を内向させたいにも係わらず、状況がそれを許さなかったのです。

 この仕事をお客の少ない曜日に合わせるために、他の仕込みを調整したり、刻む時間帯を調整したりと苦労しました。また、どうすれば早く刻めるのか、どうすれば楽に刻めるのかを常に探っていました。

 しかしザクザクとした手応えで確かに刻んでいるにも係わらず、刻んでも、刻んでも終わりの見えない感覚がありました。例えばこれを、食べても、食べても終わりのない感覚。むしゃむしゃと繊維の確かな食材を噛み続ける感覚。これらに置き換えて想像していくと、自分の意識の中で自身の存在が次第に不確かに拡がっていくように感じられます。刻んでも、刻んでも大地に足跡を残せない。自分自身が何とも哀れに思えてくるのです。

 噛むという行動は意識を内向させます。それは聴覚や触覚が体の内部環境に向くからです。味わうというのなら味覚と嗅覚も同じです。分かり辛いものを目の前にした時も、心の鬱屈や思考の閊えによって意識を内向させることに繋がります。それはその人に違和感を憶えさせ、時に立ち止まり考えさせてくれることに繋がるでしょう。そして考えることによって知性が発達します。それはとても良いことですが、上記の私のエピソードのように昆布なるものばかりに過度に向き合いながらも、意識を外向させていると気力が失われ意固地になっていくように思えますので注意が必要です。 
 


4、周囲の存在の認識 


 前節では昆布料理を例に挙げましたので、今度は私が思う昆布なる料理を例に挙げてみます。
 私が思う代表的なものは青菜を使った料理です。青菜とは緑色の菜の総称です。ほうれん草、菜の花、水菜、青梗菜など様々なものがあります。日本料理ではこれら青菜は和え物や炊合せ、煮物椀などあらゆる料理に使われます。家庭では味噌汁の具や炒め物、酢の物、鍋物などで見かけるのではないでしょうか。

 海藻を食す習慣のない国で、海藻が海の野菜と呼ばれるように、海産資源の豊富な日本においては、野菜を陸の海藻と呼んでもおかしくないかもしれません。その陸の海藻である野菜の中でも、昆布と同じように食物繊維を豊富に持っているのが青菜です。

 ほうれん草のお浸しを食べている時、ざくざくとした口中の咀嚼音が体の内側から頭に響きます。そして青菜特有の淡い苦味を感じます。その音を聞き苦味を味わうと、意識は自然と内向します。人の注意は反射的に動きのある方向に向くからですね。味も音も動きを表しているものです。味の動きについては「四大味覚による舌筋の動きと心理」という記事にて分類して説明しておりますので、ぜひご覧ください。

 昆布なる料理から得られる感覚は淡い感覚ですので、皆さんも静かな環境で黙々と食べてみてください。そうすれば私の言っている感覚を理解していただけると思います。
 
 食物繊維の豊富なものを飲み込むには充分な咀嚼が必要です。そのため、一生懸命に口を動かします。これは能動的な姿勢です。蕩けるような美味しいステーキを食べている時と真逆の姿勢です。周囲にひと気を感じない静かな環境で自分自身が動いている時、感覚として周囲の物事はゆっくり動いているように感じます。動いている存在、確かな存在、実存する存在は自分だけであり、周囲はひっそりとして感覚的にのみ存在しているように感じられるのです。これも人の感覚は相対的に作用し合うためです。

 存在を感覚的にのみ感じられる状態とは目に見える乱雑さの小さな状態であり、自己の存在感(自意識)が自然や社会という大きな概念に近しい状態です。そういった、現実世界で乱雑さの少ない状況を得た時、人の意識は内向し思考や空想を繰り広げます。その時、人の意識は上へ上へと向かっているのではないでしょうか。実際は副交感神経の活動が高まり、頭や心肺に集まっていた血液が消化器系や泌尿器系の方へと下方向へ流れることで、頭が軽く感じられている状態です。昆布が着床する岩を見付つけて根付き成長の過程で上へ伸びていく動きと似ています。潮の流れに揺られ、ただただ身を任せる不確かな生き方をする昆布は何を思い感じているのかと考えてしまいます。

 人は太古の昔から自然を畏れ、敬い、共存してきました。しかし同時に恐れもしてきました。社会に対しても同じことが言えます。恐れは無知からくるものです。ですので、その状態に安心を憶えるか不安を憶えるかはその時のその人の状態によります。少し踏み込んで考えてみると、現代の日本社会で「孤独」なる言葉が溢れているのも、人と社会との結びつきが薄れていたり、自然から遠ざかり自然に対して無知であることも要因の一つかもしれません。そしてそれは「鰹なる料理」の力強い味を好む傾向にも関係しているのではないかと思います。

 強く逞しく自信のある状態の時、周囲の物事に動きが感じられない状況は心を休める箸休めに感じるか、或いは物足りなさを感じるでしょう。逆に不安の強い状態で、尚且つその人が副交感神経が優位な状態であれば、周囲の物事に動きが感じられない状況は安心感を喚起されるでしょうし、逆に交感神経が優位な状態の時は一層の不安を喚起させるでしょう。いずれにしてもどちらに転ぶかはその人の概念に対する理解と意識の方向次第なのだと思います。

 ここでいう概念とは、視座によって見え方が変わる景色のことであり、景色とは時空間のことです。
 例えば、何か意見をする時、それが個人としての意見なのか、家族としての意見なのか、或いは日本人としてなのか、人類としてなのか、はたまた猫の気持ちを想像してのものなのか、植物になった気持ちで述べているのか、地球になった感覚でのものなのか。それぞれに意見は変わるでしょう。物事の見え方はこの意識チャンネル(視座)をどの概念に合わせるかによって変化すると考えています。そして合わせたチャンネルの景色は体験と学習、想像と論理といった理解によって解像度や正確さが変わります。

 周囲に動きを感じられない、ある意味、孤独な状況に涼しさを感じるか、淋しさを感じるかはその人の大きな概念に対する理解によるのだと思います。自然や社会と自己との調和に対する理解があるならば涼しさを感じるでしょう。しかし自己の存在感(自意識)が自然や社会よりも大きい場合、つまり交感神経が優位な状態であり、自意識の過剰な状態の時、その人は淋しさを感じるのだと思います。言い替えると、ものを見る時、自然物よりも人工物に注意が向き、或いは精神的なものよりも物質的なものに注意が向く状態の人は動きの少ない状況に淋しさを憶えるのだと思います。

 昆布なる料理は咀嚼の回数を重ねるほど、淡い苦味は舌筋とその周辺の筋肉に捻じれた動きを生じさせます。観念的に見ると、その感覚によって自意識は自己の実存の中心に向かって浅く狭く小さく収縮し記憶へと昇華するように感じます。これが副交感神経の活動が高まる生体の反応の「休息と消化」の消化からくる心理なのではないかと思えます。

 一方で昆布なるものの持つ淡い甘味は舌筋とその周辺の筋肉に左右へ揺れる動きを生じさせます。観念的に見ると、その感覚によって周囲の存在は実存の輪郭を暈して本質を顕わにさせるように思えます。これが「休息と消化」の休息からくる心理なのではないかと思います。
 
 収縮した意識は記憶となり、私たちに解像度と正確さを増した新たな景色を見せてくれているように感じます。そしてまた、意識がゆっくりと薄く広がり消えゆく余韻の中で、私たちは大きな概念、異なる概念の景色を見たり、動きを体感しているのではないでしょうか。そしてその再生された自意識に私たちは広さと深みを感じ、そこに喜びを得ているように思うのです。

 その喜びを私たちは体性神経系の反射によって鮮明に表情にしたり、或いは自律神経系の反射によって起こる血流の変化に、喜びを確かに感じ取ることができているようにも思います。しかし人が知性によってのみこのことを捉えようとするならば、未だにこの喜びを鮮明に捉えることはできないのではないでしょうか。そしてここにある溝こそが私たちが内向し想像を繰り広げる余地であり、残された自由なのかもしれません。
 


5、道具として使う

 このように見ていくと、昆布なるものは内向による古い自意識の記憶化によって新たな意識を生み出すものであり、生み出された自意識よって新たな外向の扉を見付けさせてくれるものと言えるのではないかと思います。
 
 さて、ここまで記事を読んでくださった方は、昆布なるものが如何に分かり辛く、即効性に乏しく、そしてこの知識の実用化と効果の実感を得にくいものであるかがお分かりになったかと思います。ですので、この記事の始めに、私が抱いた疑問に対する私なりの回答を記して、これにより、即効性と実用性を補っておきたいと思います。
 
 まず、里芋の炊き方が夏と冬で異なることについてです。
まず、簡単に答えを述べておくと、意識や体が弛みやすい夏場には意識や体を引き締めてくれる昆布が合っている、になります。また美味しさについても夏場は口中が酸性に傾きやすいため、アルカリ性食品である昆布を強調することによって、口中が恒常的な状態である弱アルカリ性の方向へと中和され、この正常な方向への動きに快を得られ易いため、になります。
 詳しくは以下に情報を具体的に記しておきます。

  • 夏は差し昆布、数滴の淡口醤油と塩によるお吸い物程度の味付け

  • 冬は追いがつお、少量の淡口醤油と塩、砂糖と味醂による甘味がちな味付け

  • 京料理ですので、場所は京都です。京都は夏は蒸し暑く、冬は底冷えのする気候

  • 人の体や心は季節の変化による影響を受ける

以下に夏と冬に起こり易いとされている体調の変化を整理してみます。

・寝つきが悪く、何度も目覚める
・寝汗をかきやすい
・赤ら顔 
・クヨクヨしやすい
・めまいや立ちくらみをおこしやすい

・冷えやすい
・疲れやすい
・耳の症状がある
・ストレスを感じやすい
・腰痛がある

 これらのことから夏は体が熱を持ちやすく意識が弛みやすいことが分かります。そのためなぜ夏に差し昆布をするのかについて、まず、
 栄養や生理学的な面から、
・昆布はミネラルや食物繊維が多いため、発汗によって失われたものを補充できることや疲労の蓄積を予防する効果があるグルタミン酸がふくまれていることが挙げられます。

また、生理学的な面と美味しさの面から、
・夏は口中が酸性に傾きやすいため、昆布のアルカリ性に快を得やすいことが挙げられます。加えて、これにより口中の感覚に幅の大きな動きが生じるため、意識が覚醒したかのように感じること。またアルカリ性自体に硬度を感じるため、緊張感を得やすい。
夏に口中が酸性に傾きやすい理由は、唾液の分泌量が減りやすいためです。何故減るのかについては以下の通りです。
①唾液も体液ですので、汗をかきやすい夏は唾液の分泌量も減る。
②唾液はストレスにより分泌量が減る

 これらの総合的な作用が味付けに使った塩味の特徴である即効性と食材の特徴を際立たせる効果により、よりはっきりと快を得られやすくしているのではないかと考えています。※塩味には食材の味の輪郭を引き立たせる効果があります。

 それでは何故、私と先輩は冬の炊き方の方が美味しいと感じたのかについて考えてみると、当時の店は百貨店に入っており、年中空調の効いた調理場であったことが原因ではないかと思い当たりました。またその店は少人数でもあり、仕事の種類に幅が少なく、その為いつも同じ動きをすることが多く、鰹の拡散的な香りと味の方がのびのびとした感覚になれたからなのかもしれません。

 逆に冬は熱が体から逃げやすく意識は過剰に引き締まり易いことが分かります。この特徴が追いがつおや甘めの味付けをすることで相殺されるのだと考えています。かつお出汁の特徴については「かつお思考」の記事をご覧ください。

 次に、お酒を飲んだ後に昆布茶を飲むとだらけた意識が覚醒することについてです。
 これについても上記と似たようなもので、
一つは、お酒による口中の酸性への傾きがアルカリ性食品である昆布によって中和されたこと。つまり感覚が切り替わった、瞬間的な動き(大きな驚き)があったこと。
二つ目には、お酒を飲んだ後の、口中が酸性へと傾いた状態とは仄かに甘味が後を引いた状態ですので、昆布茶に含まれる塩味との動きの対比により舌筋と舌周辺の筋肉の動きに激しい落差が生じたためとなります。甘味はゆっくりと左右の動きを生み、これに比べて塩味は比較的早い前後の動きを生むからです。

 このことから舌筋とその周辺の筋肉が即座に緊張し、その動きと速度が緊張感のある心理作用を生むのではないかと考えています。そして二杯目に飲んだ昆布茶によって口中が過度にアルカリ性へと傾き、渋さや苦味を感じ、舌筋とその周辺の筋肉が捻じれたり窄んだりするような動きを見せたのだと考えています。

 以上が私なりの解答ですが、皆さんも夏はジュースやお酒で酸性に傾いた口の中をお茶などのアルカリ性飲料で中和されると、気持ちがシャキッとしますし、虫歯予防にもなりますので試してみてください。特に、お酒をたくさん飲まれた後の昆布茶はおすすめです。以下にその他のアルカリ性飲料を紹介しておきます。

牛乳、緑茶、豆乳、紅茶、麦茶

 それに、研究や開発、新しい発想を得たい方は昆布なる料理を食べ、意識を内向させ、リラックスされると良い発想が得られると思います。すごい研究成果などを出される方がお風呂やトイレなどのリラックスした時にひらめきを得たと話されているのを耳にしますが、昆布なる料理を食べることも同じことなのだろうと思います。一生懸命に学習し、交感神経を優位にする習慣を持った人が如何にリラックスする術を持つのかが重要なのだと思います。

 しかし私は昆布なる料理を、外向的な性格で息詰まりを憶える人にも食べて欲しいと思っています。それは先にも述べましたが、視座の変化を得られるからです。
 昆布の物質性に感じられる確かさと、昆布の味や生態に感じる不確かさ、この相反する二面性の交わった情報(料理)を、「確かな者が不確かに生きる物語」として私たちは味わうことができます。
 昆布の情報、料理、或いは記憶と言っても良いと思いますが、これらから得た感覚を言葉にすると、どのような言葉になるでしょうか。私は、
 余裕、寛容、悠久などの言葉が思い浮かびます。そして概念の大きな者が描く論理を感じます。

 鰹なる自意識の過剰な人が昆布なるものを前にした時には弱い自分を感じます。私の場合ですと、昆布の佃煮を炊く際には、費やすエネルギーと時間を思うと反射的に緊張と疲労を感じます。また若い頃、本を開き、専門料理の写真とそこに掲載された料理の名前を見比べてみても、食材の多くは原型の留めておらず、また想像以上に形が変えられており、何が何だか分かりませんでした。もどかしさばかりが募った記憶があります。私の店の来店客も、メニュー表と八寸を見比べては言い当て合っておられますが、やはり分からないようで難しい顔をされる人もおられます。

 私たちは昆布なるものを前にして「できない自分」を感じます。それは、過度な競争を強いられ、時間に追われ、才能を追い求めなければならない現代社会に生きる私たち「鰹なる者」には目を背けたくなる現実でもあります。心は鬱屈として、自分の存在が小さく弱まっていくようにも感じられます。狭い空間に不安と恐怖とともに閉じ込められるようで、緊迫した時間感覚に急き立てられます。

 しかし同時に、昆布なるものにはこの不安と恐怖、そして存在が干からびていく感覚を安心と喜び、そして自立した確かな感覚へと変えてくれる力があると思うのです。
 弱い自分、何もできない自分を受け入れるにはそれを認める必要があります。それは昆布なる料理や昆布なるものを味わうということです。そしてそれは「今」、「この場所」、「この状態」、「目的」に囚われている自意識を手放すことでもあります。
 
 その古い自意識を捨てた時、上へ上へ伸びる昆布のように、私たちは一回りも二回りも大きくなった概念として新しい自意識を持てるのです。そしてきっと、その視座から自分を支えてくれている周囲の存在に気付くでしょう。それが私たちを取り巻く身近な社会や自然です。身近な社会や自然に、それまで見えてこなかった新たな一面を見るのです。
 その景色を見た時、私たちの心はきっと冴えわたるように晴れ、穏やかになります。
そしてその時、私たちは確信するでしょう。
 「きっと、どうにかなるのだ」と。
 「生きていていいのだ」と。
その調和した感覚によって、私たちの足は然として歩み出そうとするのです。
私はこの昆布という情報体に記憶された淡く儚い物語に広く深い空間があることを確信しています。


 



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