11/14分補足と裏話


こんにちは、Yusonです。

先日、ちょっとした「挫折話」を書きました。


書いたことによって、なんとなく消化しきれなかった「痛み」も和らいだと思います。なんでもネタになるんですね。(笑)
改めて、「勉強する」とはどういうことなのかを考えてみたいと思います。


そもそも、「学ぶ」という言葉は「まねぶ」というところから派生しているそうです。

「まねぶ」、つまり真似をする。

学校に入ってまず最初に教えてもらうことは、「人のまねをすること」だと思います。
文字の書き方から挨拶の仕方まで、先生や周りの大人たちに教えてもらう。教えてもらったことはなるべく長く覚えておくように工夫する。そのうちの一つがテスト、なのかもしれません。

「暗記」に対して疑問を唱える方もいますが、自由に考え、創造するためにはまず、「材料としての知識」を覚える必要があります。全くのゼロからは何も生まれないからです。0から1になるための必要なステップ。


少し学年が上がれば、今度はそれらの知識を「つなぎ合わせる」作業になります。
世界史であれば、1989年という年号を見たとき、頭の中でどこまで世界地図を広げられるのか。日本国内で起きた出来事とヨーロッパ諸国や中近東、アジア・アフリカ各国がどういった流れを展開していたのか。そしてそれはどのように連鎖していたのか。ここでは、横の繋がりと縦の繋がりを見出すスキルが「物を言う学力」なんだと思います。


学校というシステムにいる間は、上に述べた「作業」やそれの少し応用で事足りると思います。では、大人になってからの「学び」とは一体どういうものなのでしょうか。


先生もいなければ、時間割も無い。
何よりも決定的な違いは、明確な「答え」が無いということです。


価値観が多様化している、とはよく聞くフレーズです。
様々なことが「(責任が取れるなら)なんでもOK」と少しずつ許されてきています。
正解・不正解が無い時代の中で、

自分が実際に経験して得た情報と知識をもとに、自分で「問い」を立てる。そして考える。行動する。失敗もする。落ち込むけど前を向く。やがて色んな事に氣付く。

こういったことを、最近繰り返しているのかな、と思います。
時間もかかるし、面倒くさいです。
でも、「自分だけの答え」ほど腑に落ちるものは無いのだと思います。


憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)