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ふろん太くんがいる街|前編

「ふろん太くんに会いたい」

 三歳の長女が僕にそう告げる。口調は柔らかいが、確かな意志を感じさせる。祭日の昼下がり、僕と長女は二人でカフェに入り、緩やかにたゆたう時間の経過を楽しんでいた。彼女は大好きなストロベリー味のアイスクリームを口にし、僕はアイスコーヒーをなめるように味わっていた。霧を吹きかけたかのように、水滴がカップの表面に浮く。店内で一時間は過ごしただろうか。空から降り注ぐ八月の太陽によって上がった体温は落ち着きを取り戻した。

 僕と彼女のカレンダーは空白だ。自由に時間が使える。帰宅することも、気が赴く場に向かうこともできる。僕たちの行動に制限を与える要素は新型コロナウィルス以外に何もない。店外に足を踏み出すと、サウナのような熱気が瞬時に全身を包む。

「じゃぶじゃぶ池に行く?」
暑さに触発された僕は彼女にそう訊ねる。

「嫌だ」
こんな暑い日でも水遊びをすることは彼女にとって、魅力的な選択肢とは映らなかったようだ。

「家に帰る?」
「嫌だ」
帰宅したいわけでもない。

こういった言葉の交換を経て、「ふろん太くんに会いたい」という発言へと帰結する。

「本当に行くの?」
意外に感じた僕は彼女に再確認の意味合いも込めて訊く。
「うん」とシャープな答えが彼女の口から放たれる。

 うだるような暑さで若干の気後れはしながらも、長女との小さな冒険は僕の心に漣を立てる。幸いにも、駅は僕たちの眼の前にある。ここから電車に乗って十五分。僕たちは川崎フロンターレのマスコットとして愛されるふろん太がいる武蔵小杉へと向かった。

 彼女がふろん太を知ったのは一年ほど前の七月だ。その日の空は今日よりも青みが強かった気がする。その日も今日と同じく、一日の中で達成しなくてはならない義務もなければ、明確な目的もない、空白の一日だった。そんな一日を僕はサッカーの息吹を感じるため、試合が開催されない等々力陸上競技場へと向かうことにした。

 僕よりもサッカーが好きな人はいるだろうが、僕はサッカーが好きだ。しかし、僕には感情移入できるクラブが一つもない。表立って意識したことはない。しかし、自分自身の生まれ故郷やバックボーンを象徴するようなクラブが存在し、文字通り「サポート」をしたいと心の片隅では思ってきた。また、それを持つ人々に対して少なからず、うらやましさのようなものも感じてきた。しかし、そのクラブを生まれながらにして持ち合わせていない者にとって、それを見つける過程は恋愛や結婚と同じように強引に見つかるものではなく、そこに至るまでの過程が多分に自然さを伴わなくてはいけない。

 父親になり、長女と一緒にスタジアムでサッカー観戦する光景を時折想像した。心の底から願っていたということはない。しかし、それは僕に温もりを与えてくれる、とても現実的な目標として脳裏に刻まれ、不定期に意識するようになった。そして、その目標を実現する場所として、自宅からドア・ツー・ドアで四十五分の距離にある等々力陸上競技場が頭に浮かんだ。言わずと知れた、川崎フロンターレのホームグラウンドだ。

 記憶が呼び起こされ、僕と長女は妻と産まれたばかりの二女を自宅に残して電車に飛び乗った。どのような理由を添えて、自分自身のサッカー欲を満たす用事に長女を付き合わせたのかは記憶から抜け落ちてしまっている。「帰りにお菓子を買ってあげるよ」とでも約束したのかもしれない。

 新丸子駅の改札を抜け、周辺の地図を探す。等々力陸上競技場への方角を確認する。こぢんまりとした商店街が眼に飛び込む。街の電気店の入り口にはフロンターレのポスターが貼られていた。チームのTシャツを着た男性も視界に映る。街灯にも小さなフラッグが掲げられていた。フロンターレにとってのディープスポットに足を踏み入れたことを実感する。

 ディープスポットとは表現したものの、人通りは少なく、雰囲気は平穏そのものだ。夏の香りが辺りに広がる。奈良・長谷寺を本山とする真言宗豊山派の寺院・大楽院を抜ける。スタジアムの周辺に寺院があり、碁盤を埋めるように住居が建ち並ぶ。迷路のような路地を抜けて上空が開けた場所へと出た。スタジアムの照明が巨大なアンテナのように高くそびえる。それを目印に僕が歩く速度は徐々に加速していく。

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 等々力陸上競技場の外周へと到着した。眼前に十二番ゲートが静かに息をするかのように存在感を放っていた。主が不在のスタジアム。歓声が耳に届くことはない。しかし、コンクリート壁や地面、周囲に漂う空気からも鼓動にも似たエネルギーを感じずにはいられない。左手で長女の手をつなぎ、右の手のひらでコンクリート壁に触れる。ざらざらとした感触が今でも残っている。神聖な舞台に触れ、僕は身体の中が脈打つのを感じた。

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 二〇一五年にリニューアルオープンしたメインスタンドをゆっくりと眺め、近くにあった公園で長女と遊んだ。ジャングルジムを登り、滑り台を勢いよく二人で滑る。その公園は青黒を基調とし、あるキャラクターのイラストが遊具の随所に描かれていた。

「この子のお名前は?」と長女は僕に訊ねる。
「ふろん太だよ」

長女にとって、ふろん太との出会いはこのようにして訪れた。

後編に続く

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