一駅の思考
今日は出張のため、新幹線に乗車している。
出張と言っても、何も商談をまとめるとか打ち合わせをするとかいう類のものではなく、他の大学主催のシンポジウム的なものを聞いてくるというものだ。目的の半分は研修であり、半分は情報収集。こういう出張が多い。しかし私に何を担わされているのか不明瞭であるから、こういった出張に意味があるのかは、正直わからない。
このところ、自分の仕事のことがよくわからなくなっている。役割も、目的も、それが私である理由も。異動してからこのかた、ずっと、わからない。あなたの仕事はこれだと、指し示すものも人もないし、私の仕事はこれだと、腹落ちしてできた試しがない。
こうして考えてみると、私のいるところに、まったく意味なんてないような気がする。部署にはミッションがなく、ただ政治的な背景で置かれているだけ。どうか正しく意味を与えてほしいが、それぞれが(構成員も、周りの関係者も)、好き好きに意味を付している。
幸いなことに、私や、同じ部署の同僚の意見は、ほぼ一致しているのだが、不幸なことに、事務局長や他部署の上層部、教員、業務上関わる職員は、考え方がまるで違う。一言で言ってしまえば、私達をなんだと思っているのか、と、言いたくなるような、他所からの扱いで、それに対して強烈な違和感があるのに、では何ですかと改めて問われると、結局私達が考えているようなことは何も担わされていないことに気づくのだ。私たちは一体何か。一体何ですかと、誰に聞いたら良いのだろう。
組織の不健全さを愚痴るのはこのくらいにしておく。
はじめ書こうとしていたのはこの話ではなかった。
このところ、「書く」ということについて、よく考える。
自分にとって、「書く」ということは、「誰かに話を聞いてほしい」という意味なんではないかと最近思えてきた。
振り返れば、十代のころ、私があんなに書いたのは、家でも学校でも話すのを封殺され抑圧されていたことの裏返しであるような気がするし、このところまた書こうという意欲があるのも、あらゆるところで思うように通じないことの裏返しであるような気がする。
仕事のことを考えるときに、では書く人、書くことを生業にする人になりたいかと、自分に問うてみて、なかなか頷けないのは、そのせいだ。
前にも書いたような気がするが、私は純粋に書くのが好きなのではない。話を聞いてほしい、言いたいことを受容してもらいたい、というのがその根底にある。だから、書くことを仕事にしてはいけないような気がしている。話を許されない、話を聞いてもらえない状況が、私を書くことに駆り立てるのだから、話を聞いてもらえる状況になれば、燃料がなくなって書かなくなることが目に見えている。
そういう意味では、今、口を塞がれていることで、思考することが増えているから、逆説的に私にとって幸いなのかもしれない。
余計にわからなくなってきた。
何が私にとって幸いなんだろうか。
新幹線が目的の駅についたので、今日はひとまずこのへんで。
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