フェスで思ったこと、また、アートについて。

お盆も終盤の週末、
8月16日、MIDNIGHT SONIC@東京幕張
8月18日、SUMMER SONIC@大阪舞洲
に行ってきたのだが、今日思うことを書いておく。

どうしようか迷ったが、今やっぱり書いておいた方がいいかと思ったので、そうすることにした。明日からちゃんと気持ちを切り替えて仕事するためには、今思ったことは今出しておかねばならないし、日常では忘れていってしまう気もするし。
(ちなみに今大阪帰りの新幹線でこれを書いている。乗車している間に思うままに感覚ベースで感想を書こうとしているので、詳細なライブレポみたいなものは期待しないでほしいのと、途中意味がわからない内容になるかもしれないがそれもまた大目に見て欲しい)

夏フェスには行ったことはなかったのだが、好きなアーティストが両日出るというので注目していたところ、日程がなんとかなりそうだったこと、宿泊先と交通費の目処も立ったこと、チケットが取れたこと、などのいろいろな幸運が重なってトントン拍子で両方に参加できることになった。二ヶ月前には想像もしていなかった未来だ。

なんというか、私の場合はこうして人生に必要なものを偶然と時の運によって貰っていくんだなと、改めて思った。代償として10万ほどの出費はあったが、他では得られないものを得られたから、行ってよかった。

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自分がその中に身をおいて初めて、フェスというのがどういうものなのか、わかった。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。

世界中の人が、音楽という共通項だけであんなに(来場はのべ30万人を記録したらしい)集い、飛び跳ね、叫び、楽しみ、そこここで感情がスパークする。予期せぬ出会いが化学反応を起こして爆発する。精神世界では星の1つでも発生してるんじゃないかと思えるくらいに、さまざまに。
誰もが皮膚とこころに軽いやけどを負って、ひりひりとしながら帰り、寝起きに呆然とあれは何だったんだと、反芻する。
それが、フェスだ、と知った。
私のこころにも、くっきりと、日焼けのあとが残っている。しばらくの間は強烈な感覚として残るんだろうなぁと思う。

好きが生み出すエネルギーは、台風みたいなものだ。一人ひとりが、ちいさな水蒸気だとして、それが、熱と気流によって、集まり、渦をつくり、一気に膨れ上がる。このうねりが、明日からの世界を変え、動かしていく。
これは少し中毒になるかもしれない。

この危険な中毒性には見覚えがあって、なんだろうと思っていたのだけど、よく考えてみればフェスとはそういえばそもそも「祭」なのだったと、さっき思った。
幼少期からよく経験している、お祭の熱狂。人生かけてすべてを祭に込める熱を持った人と、その熱に当てられながらお囃子に身体を委ね、全てと一体化する参加者。フェスも全く同じで、それが地域で閉じず、グローバルに展開されているというだけの違いだ。そりゃあ楽しいわけだよな。

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フェスでは好きなアーティストのワンマンライブとは違った一面を見られるのも良かった。ワンマンではファンに歌うけれども、フェスは、なんというか、「いざ尋常に勝負!」とでもいうか、真剣勝負の果たし合いの面もあるんだなと感じた。会場の雰囲気も通常とは違うし、気合の入りようもこの上なかった。全力でぶつかりに行って、そしてまた、スパークする。

3、40分〜1時間半ほどの持ち時間のなかで、どのアーティストもセットリストを代表曲だけで固めるのではなく、聴かせたい、歌いたい、を中心とした、真剣勝負の切り込みをしてくるので、刺さらないわけがないんだよなぁ。
そういう真剣勝負を目にすると、やっぱり、音楽はアートなんだなぁ、と感じる。

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それから、音楽、アート、文学、芸術、文化、そういうのは、こころの食物連鎖というか、精神の継承というか、系譜的なつながりというか、そういうところがあるよな、というのを改めて思った。これが今回のフェスにおける最大の収穫と言ってもいい。

私が好きで影響を受けたアーティスト自身にも、大好きで影響を受けたアーティストがたくさんいて、しかもそのアーティストもフェスに出演するとなって、今回彼は自分の出演も楽しみにしながら、観客としても愛するアーティストに会えることをほんとうに楽しみにしていたらしい。それを知ってまた私も嬉しくなって、それらの音楽に触れてみる契機となった。それはまるで、今まで会ったことのなかったグランマに会うような感覚だった。

自分の親の親のそのまた親を想像していくときのように、自分が影響を受けた数々のアーティストたちに影響を与えたアーティスト、そのさきのアーティスト、と連綿と続く影響の系譜を思うと、ほんとうに不思議な気持ちになる。すべての人が、こころの動きが、表現が、出会いが、愛が、1つでも欠けたら今の私は存在しない。
アートはすべて、そういうものだ。アートが生まれるところに存在する、人の数々の挫折や鬱屈、失望、願い、そういったものもすべて含んだ、一切合切の経験とこころの動きとその表出が、もし存在しなければ今の私をかたちづくることはできない。だからこの世の全てが愛おしく、尊く感じられる。

そして、今までの私の揺れる心も、悩みや苦しみも、喜びも幸福も、表出していくことでどこかの誰かにそっと組み込まれるんじゃないかと、かすかな期待が同時に生まれた。それは表現者にとっての希望であり、救いだと思う。
私は子どももいなければ金持ちでもないが、音楽や文学やアートに触れ自身も埋没させることによって、子をなすだけが、財をなすだけが、人の存在意義ではないと、信じることができる。私のこころは、誰かのこころに食べられて、続いていくだろうと思える。私も存在してよかったと安心できる。
だから表現を続けたいと、強く思った。表現というのは、何もかたいものに限られず、このnote上に何か書くことだってそうだし、思うことを人に言うことだってそうだ。

人はこころを食べて食べられることで、生きることができるのだ。
そんなことを、思った。

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元文芸部員。修士(文学)。東北人。 かつて東京でSEをやっており、現在は地方の大学職員。 一見人当たりは良いが人見知りで人付き合いは苦手。「ほんとう」の純度の高いこころの交流を求めているが、現実世界ではたぶん不可能だと諦めているから。INFP。

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