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わるいかお。

自分は良く「悪い顔」という言葉を使う。

コレは「自分の本音」つまり、良い自分も悪い自分もさらけ出すという事。

人間関係は、生活でもプライベートでも大きなストレスになる事がある。
親しい、心分かち合える人のなんという少ない事かと、グッタリする。

そんな中で、自分の思い出を形に残すために。
そして自分を赤裸々に見せたいという思いで、noteを書き始めた。

しかし。
「表面上では赤裸々な部分を見せて」いたとしても、
「内面上の自分までは、表現という形ではあったとしても、全てさらけ出す事は難しい」
と思う。

書くことは全く負荷は掛からず、苦にもならない。
むしろ、書く事は「自分を書き出す」事で楽になっている。

ただ、
全てをさらけ出しきる=赤裸々に見せるには、まだまだ時間が掛かりそう
だなぁと、noteを書きつつ思ったことだ。

さて、悪い顔の話に戻る。

人って、性善説で生きているものか?性悪説で生きているものか?を
考えれば、性悪説の中に、それぞれ人本来の輝きがあると思う。

胸の中に「黃金色に輝く珠」があっても、それを「ほれほれ」と見せる
のには、自分の「真っ黒な皮を剥かなければならない」のだろうと。

けどね。
いつもいつもそんな黄金の珠を見てると、目をやられるし、ありがたさ
なんていつかは消えてしまう。

相手を察する気持ちからの行動。
よく自分は認識という言葉を使うんだけれども、この認識あっての行動が
大事になってくる。

ふわぁっと自分の体の胸の奥のほうで、綺麗に輝く珠がうっすらと光って
いたらしめたものだ( ´_ゝ`)

そこに相反する黒色の着ぐるみがあってこそ、その光る珠がなんたるや?
かを知りたくもあるし、妙に綺麗に思えるものだろうと思う。

ちょっと、比喩が多すぎて難しい話になってしまったようだ( ´_ゝ`)

たまに悪い顔。
つまり、自分の本音の部分を出している事によって、いい方向に行く場合が
あるんですね。

同じ場所へ向かうにしても、日々鍛錬、健全安全、無味乾燥な自分でいる
事は、誰も強制していない。
むしろ、周りの目を気にしすぎているせいもあるだろうね。

それならば、少々自分らしさと言うか、人間の本音の部分と言うか、
そういった本来の自分をさらけ出して行動するときがあってもいいだろうと
思う。

仕事が終わって、一息ついて( ´_ゝ`)

「さー!悪い顔するぞ!」って意気込むくらいの元気な姿が最近無かった。

今日は一日。
自身の行動とともにだけど、本当に悪い顔してる。
今日はやりたい放題の自分でいる。それも就業時間にも関わらずだ。
しかし本当に珍しい事なんです。

家帰ってきたりとか、休日に悪い顔してるのが最近無くなったので、
今日一日は悪い顔してやろうと。
この企みは、自分を楽にすることができたので、一応成功ですね( ´_ゝ`)

悪い顔をしようと思ったもう一つの理由は。
「考え方が攻撃的になってきた」ことも大きい。

自分も黒いくせに、いや生き方考えたら真っ黒だった時期もあったくせに、
人の対応や言動に「もっと真っ白になれよ!!」と思ってしまって、
これは危ないな・・・と。

相手を悪く思うのはダメだ。
いや悪く思ってもいいんだけれど、それを自分が清純潔白な心でいると
勘違いしてはダメだということが大事。

むしろ相手が悪そうに見えたら、
肩を抱き「おおう・・・。オレと組まないか?」くらいの悪い顔でいるのも、
たまにはいいだろうなと思ったんですね。

見えない敵と戦っている方がいれば。(多いと思うんですが。)
その敵を取り込むくらいの悪い顔をするのもいいかもしれません。

悪い行動は良くないにせよ、悪い顔して自分をさらけ出して、
たまには悪役気取るのも気分がいいと思います( ´_ゝ`)

ゆうさん



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