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無記名読書感想文第1回 「パン屋再襲撃」村上春樹著

初めに:これから毎週読書感想文でも書こうと思います。(たぶん毎週日曜日の夜中から月曜日の早朝更新)

結局、パン屋は襲うべきではなかったが by

 記念すべき第一回は村上春樹さんの著作から「パン屋再襲撃」

 この話はパン屋襲撃というお話の続編として書かれた短編であり、パン屋再襲撃という短編集の表題作でもある。
 

 ”深夜に夫婦が目を醒ましておなかすきまくってるのに、家には何もない。かといってこの時間に外出するのは不道徳的だという妻、そしてそれに従う夫兼主人公。そしてふと主人公は思い出す「パン屋襲撃」(金もなくてパン屋を襲ったけど、店主からレコードを聴く代わりにパンを受け取った事件)を、そして妻にそれを話すと妻はこういう「あなたは呪われている」そして「私達はもう一度パン屋を襲撃しなければならないのよ」そして夫婦は車に乗り込み、そしてマクドナルドを襲い、逃亡する、食べきれないほどのビックマックを抱えて”

あらすじ written by me

 この短編は僕の中で村上春樹作品トップ3には入りそうな位好きな短編で、もう何度も読み返している。それなのに何度読んでも「何故こいつらはパン屋襲ってるん?」と思ってしまうのも本当の事だ。それでも何かが僕の心を引っかける。
 ネットで調べてみると「一度目のパン屋襲撃とは学生闘争の事で、再襲撃は近代化への反逆だ。そしてマクドナルドとは近代化の象徴」だと。なるほど確かにと僕はこれを見て思った。とはいっても僕は学生運動を知らないし、近代化も知らない。だって僕は平和な平成に生まれて、21世紀生まれだ。それなのになぜ、それなのにどうして僕はこの小説に惹かれるんだろう。僕はいろんな人の考察を読むたびに疑問符を持たずにいられなかった。

 たぶん、僕にも僕以外の多くの人にもこの飢えがあるんだろうと思う。それは人々が全共闘を恐ろしく思い返し、また英雄として見ているのと同じで、僕らは自由であったと思い込みたいのと同時に僕らは縛られていると思い込んでいる。そして縛られていると思い込むことで、あったはずの自由を捨て、自由であったと思い込むことで自身を縛り付けている。そして僕の解釈では、このパン屋再襲撃をすることで過去も未来も自由も束縛も全ての境界があいまいになり、そして本当の意味でのfreedomを手に入れる。
 一度目の襲撃ではこれが手に入れられなかったんだ。勝ち取った物。これはこの世界に生きている多くの人にもまた、ない。だから僕は常に不在感をおぼえるし、不必要だと感じる。誰かの手のひらで転がされている感覚。だから再襲撃をして、成功した世間ってやつを、巨大なモノから何かを奪うことができることで初めて手に入れられる。

 でもそんなものは仮初だ。再襲撃した後彼らがどうなったかは知らない。けれど何も変わらなかったはずだ。襲撃した前と何も変わらない飢えに苦しむはずだ。だってそれは生きている限りずっと訪れるはずのものだから。気づいてしまったものには一生付きまとう飢餓。しかも巨大な権力に追われ、また自由を失う。きっとボートが増えて、立ち止まったまま彼らはどこへも行けない。

 僕らは生きている限りこの飢餓と立ち向かっていく必要がある。だからこそ、彼らはパン屋を襲撃するべきではなかった。だってそれは自分の力を確認して、飢餓と一生付き合わないといけないと自覚することだから。
 個人は無力だ。マクドナルドはビックマック30個取られた所で倒産しない。対して僕らは権力に捕まり強制される。そう「1984年」のように。そして飢餓は一時期消えるが、それはただ忘れただけ思い出せばもう止まれない。学生運動がそれほどの効果を発揮しなかったように、僕らの抵抗に力はない。そして「忘れる」という平和の世界で生きていければ楽しいから。

 でも、でも、でも、それじゃダメなんだよ。それは生理的欲求だから僕らは今日もパン屋を襲う。意味がないし、ダメなことだって分かっているし、知っているけれど。

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