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おじいちゃんの記憶から私が消えた日

母が介護休暇をとって祖父母のところへ帰省している。

それもあり、先日の私の誕生日携帯のビデオ通話を通しておじいちゃんとおばあちゃんと話した。

画面にうつる2人に出来るだけ大きい声で手を振りながら「おじいちゃんー!!おばあちゃーん!!」と呼びかけると手を振り返してくれた。

横で母が「ほら見える?〇〇だよ?今日で〇歳になるからおめでとうって言ってあげて?」なんて言うのが聞こえてくる。

「お誕生日おめでとう」おじいちゃんは確かにそう言ってくれた。

母が帰った時私のこと誰かわかる?とおじいちゃんに聞いたところ母の名前ではなく私よりも年下のいとこの名前を答えたらしい。

おじいちゃんの娘三姉妹で母だけが唯一離れたところに住んでいる。だから私達以外はそこそこな頻度で祖父母の家を訪れていた。

母は自分のことをいとこと間違われたとき、「私のことがわからなくなるくらい会えない時間が長かったんだなぁ、親不孝だな」と思ったらしい。

そんなんだから、母よりももっと出現率の低い私はもうおじいちゃんの記憶からいなくなってしまった。

前回帰ったときはまだ覚えててくれたんだけどなぁ‥。

お誕生日おめでとうって言ってくれたけど、数年前の振袖の写真が居間に飾ってあるようだけどそれが誰だかはわかっていない。

趣味の貝殻集めを譲ってくれたことも、帰省するたびに新幹線の駅のホームでまってくれて抱きかかえてくれたことも、帰るときは新幹線の窓ごしに手を重ね合わせて動き出しても走りながらついてきてくれて見えなくなるまでホームの端で帽子をふってくれたことも、全部忘れてしまったんだろう。

大丈夫、おじいちゃんが忘れた分まで私は覚えているから、これからも私がおじいちゃんの歳になるくらいまでは忘れないから。

大事な人の記憶から自分がいなくなるのは不思議な感覚だ。

母にはせっかく忘れてしまったのなら、遠く離れたところに綺麗でよく出来た孫娘がいるって吹き込んでって言っておいた。

せっかく忘れてしまったのなら少しでも美化した情報を覚えて貰っちゃえ!!

そんな風に言ってるけどやっぱり少しだけ寂しくて、これから私はおじいちゃんと何度新しいはじめましてを繰り返すのだろう。

でも声が届かなくなるくらいなら、いつか話せなくなる時がくるなら私は何度でも言ってやろうと思う。

私と認識できなくていい、他人だと思われてもいい。すぐに忘れられてもいい。

「はじめて」

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