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不登校とうつ病と向き合った日々

母に車で学校まで送ってもらう途中にある
暗いトンネルの景色を、今でも鮮明に思い出せる。
涙で霞んだ目には、いつも光がぼやけて見えた。

わたしの経験が「不登校」や「うつ病」の悩みを抱える方に届けばいいなと思い、今回執筆しました。
かなり暗い話になりますので、苦手な方はご了承ください。




環境の変化

15歳の時、父が亡くなった。急死だった。
単身赴任中で別々に暮らしていたので最後に会ったのは1か月ほど前だった。
久しぶりに会えた父は、すっかり冷たくなってしまっていた。


パートで働いていた母は、三姉妹を養うため正社員になった。生活の全てが変わった。
毎日働き詰めで疲れ切っている母の姿を見るのは、とても辛かった。
睡眠時間を削り仕事をして、帰宅したら寝るだけの生活だったので、会話する機会もすっかり減ってしまった。


わたしは、高校入学直後のタイミングだった。
新しい環境に人間関係……、父の事もあって慣れるまでに時間がかかった。
葬式の時に親族からかけられた「長女なんだからこれからしっかり家庭を支えてあげなさい」という言葉が、いつもチクチクと胸を刺していた。


学校では、周りを心配させないようなるべく明るく振る舞った。
頑張っているつもりだったけど、たぶん上手く出来ていなかった。
周りの楽しそうな同級生を見る度、頑張っている自分に虚しくなって、心が苦しかった。


家では、母の変わりに祖母が来てくれた。
以前は、当然のように母がごはんを作ってくれていた。
料理が好きな人だったので、イベント時は張り切って豪勢な料理を振舞ってくれた。
そんな母の料理が大好きだった。


祖母の作る料理は、母に比べると少し質素なものに感じた。
祖母も若い子が何が好きかわからないと、作るのに苦労していたと思う。
誰も何も悪くないのに、母と違う味付けのされた料理を食べる度、父の死を実感してしまい、ただただ悲しかった。
この時から、ごはんを残すことが増えてしまった。


わたしは、家での環境の変化・同級生との気持ちの差に、だんだん耐えられなくなっていた。
学校に行くことがどんどん嫌になり、よく休むようになった。


母はとても怒った。
「何のためにこんなに必死に働いてると思ってるの!」
「天国のパパが今のあなたを見たら悲しむよ」
同じような言葉を何度もかけられ、無理にでもわたしを学校へ行かせようとした。
髪やほっぺを掴みベッドから引きずり降ろされた。
車に乗せられ学校に着くまで、ただ泣きじゃくる事しかできなかった。


母の言っていることは理解できたし、その通りだと思った。
でも、身体が勝手に拒絶するようになっていた。
頭ではわかっているのに、うまく身体が動かない。
母の期待に応えられない自分に苛立ったし、自分の気持ちを理解して貰えない悲しみもあった。


無理やり学校へ行かされても、授業を受ける気分にはなれず、逆に体調が悪くなるばかりだった。
次第に、保険室や別室で課題をするようになった。
それでも、わたしの体調は改善せず、学校にいる事が苦痛になるようになった。


誤解されそうだけど、母のことは全く恨んでいない。
わたしに、愛情を持っていたからこその行動だと理解している。
当時は母も精一杯で、わたしとどう向き合っていいかわからなかったんだろう。
なにより、父の死で一番悲しんでいたのは、他の誰でもなく母だ。



不登校へ

高校2年生の秋になった。
母も途中から無理やり行かせるのを諦め、だんだん不登校になった。
ちゃんと学校へ行っていた妹の2人からは、なんで学校に行かないの?とよく責められた。当然だ。


いつ行けるようになるかわからない。
このまま卒業まで行けなかったらどうしよう。
明日こそは行けるかな。
そんな不安で頭がいっぱいだった。


毎日朝が来るのが怖くて眠りにつくことが出来なかった。
ベッドから起き上がることもできず、何を食べても味がしなくなっていたので食事もろくにできなかった。


この頃から、癇癪で暴れるようになり、もともとあった自傷行為もひどくなった。
母と喧嘩して怒り狂ったわたしは、家族の目の前で手首を切ってしまった。
バスタオル一面が血に染まるほどの出血だったが、わたしは傷を他人に見られることをすごく嫌ったので病院には行かなかった。
母が泣きながら包帯を巻いて手当てしてくれた。
当時の傷は今もまだくっきりと残っている。



うつ病と休学

母にお願いして、心療内科に連れていってもらった。
結果は〝うつ病〟と診断された。
母はまさか自分の娘が……、と驚き悲しんでいたが、わたしは内心ほっとしていた。
病名がちゃんとつけば、学校に行かなくてよくなると思っていたから。
その日から、学校と相談してしばらく休学することになった。


普段学校に行く時間は、本当に胸が押し潰されそうになった。
なぜ行けないのか責め続け、涙を流すことしかできない自分。
うまく呼吸が出来ず、過呼吸にもよくなった。
学校へ行く妹達からは、「姉として情けない」「恥ずかしい」と言われていたが、当時はこの言葉も耳をすり抜けていた。


妹達と母が出掛け、家で祖母と2人きりになる時間だけが、わたしの唯一心休まる瞬間だった。
その時間になると、気持ちも少しほぐれた。


祖母はとても優しい人だ。
わたしがこんな状態の時も、一度も怒ったり叱ったりしなかった。
食欲が無くなりほぼ何も食べられない状態になっても、毎回食事の用意をしてくれた。
母にはよく「いつ学校行けるようになる?」と聞かれたけど、祖母は学校の話なんてしなかった。
わたしにとっては、それがとてもありがたかった。



葛藤する日々

学校に行けなくなった理由について、周りに上手く説明できなかった。
環境の変化によるストレスの積み重ねが原因だと思うが、それを自分の言葉で言い表すことができなかった。
正直に理由を言って、理解されなかったり怒られたりするのが怖かった。


病院でのカウンセリングを重ねても何を話していいかわからず「わかりません」としか言えなかった。
それでもいろいろ聞いてくる大人に対して、徐々に「わたしの気持ちなんてわかるわけない」「話しても無駄だ」とまで考えるようになった。


現状から〝逃げている〟だけで、このままだとなにも解決しないこともわかっていた。
でも、この時のわたしには〝逃げる〟ことが大切だった。
自分だけしか理解できない、誰もこの気持ちなんてわかるわけない。
そうやって、殻に閉じこもり続けた。


最後にわたしが頼ったのは、時間が解決してくれる事だけだった。



休息の時期

今は休息が必要な時期なんだ、と学校のことを考えるのをやめた。
何も考えず、何もしない日々を繰り返した。
前は意図せずそうなっていたが、自分の意思で行動するようにしてみた。
できるだけリラックス出来るように、好きなことに触れ、元気な時は近所の公園まで散歩した。
食事も食欲がある時は、好きなものをたくさん食べるようにした。


環境の変化についていけず、追いつこうとずっと生き急いでいる感じがあった。
嫌なことは一旦全部忘れて、自分の為にゆっくり時間を使い〝生きる〟ことをした。


長い長い時間をかけ、自分と何度も対話し気持ちに折り合いをつけた。
しんどくて上手くいかない時もあったけど、そうやって少しずつ心の殻を取り除いた。



母からの愛情

ある日、あんなに無理やり学校に行かせようとした母が外まで買い物に連れ出してくれた。
突然の事だったので、とても驚いた。
途中、なにか学校のことを言われるんじゃないかとビクビクしていた。
でも、母は学校の事について何も触れず、普通に話してくれた。
仕事で家を空けることの多くなった母との時間は、懐かしく少し歯痒くも感じた。


すごく嬉しかった。
妹達には内緒だよ。とクレープを一緒に食べた。
当時はお金がなく、いろいろ家庭で節約していたので、母の思いやりが心に染みた。


母には、ずっとわたしを責めたい気持ちがあると思っていた。
でも、それは勘違いだった。
今回で、今までのわたしを許してくれている気がした。


それがきっかけとなり、
時間をかけて徐々に回復しつつあったわたしは、少しずつ学校に行けるようになった。
いきなりは難しかったので、午前中だけ授業を受けたりして、徐々に慣らしていった。



再びの登校、そして卒業へ

母は、仕事があるのに毎日学校まで送ってくれた。学校に行けるようになったわたしを見て、とても嬉しそうだった。
母が厳しくあたるのも、娘を思う気持ちとして同然だったんだろう。
深く大きな愛情をずっと向けてくれていた事に気づき心の底から感謝したし、母にも未熟な部分があることを知った。


今まで自分の感情に手一杯で、周りにまで目を向ける事が出来なかった。
辛いことの方が圧倒的に多かったけれど、
再び母の愛情に気づく事が出来て、良かったと思う。


長期間休んでいたので、クラスの雰囲気に馴染んだり同級生と仲良くなるのに、また時間がかかった。
しんどさを感じた期間もあったけど、何とか乗りきって無事卒業することができた。
一時期は卒業出来ないと思っていたので、最後までやりきった自分を褒めた。
これがわたしの〝鳥籠の中にいた頃の記憶〟の話。


ここまで書いてようやくあの頃の記憶全部を昇華できた気がする。
ずっとなにか残したいと思っていたから、こうやってnoteに書くことが出来て嬉しい。
自分の過去を書き残すって、少し照れくさくて恥ずかしいけどね、これは自分の為でもあるから。




あとがき

うつ病の期間中「うつ病」や「不登校」で悩んでいる子の書き込みや投稿をネットでたくさん読み漁った。
ずっと一人ぼっちだと思っていたので、同じ悩みを抱える子がこんなにもたくさんいるんだって安心できた。
日々を葛藤する内容に涙し、共感し、励まされた。


だから、今回この記事を書こうと思った。
同じ悩みを持つ人達の目に届くように。
悩みを抱える本人だけじゃなく、その親御さん達にも届いて欲しい。
昔の自分が救われたように、想いを込めて書いた。


うつ病は完治することが出来ない病気といわれていて、わたしも今は落ち着いているけど、社会人になってからも2回休職した。
その時も大分ネットに救われたな……。
これを読んで、少しでもプラスになるきっかけが生まれますように。


すごく長くなっちゃったけど、最後まで読んでくれてありがとう。

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