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未婚、子なし、梅干しの味

本来なら今は、まだじめじめした梅雨時期だ。

けれど、今年は梅雨入りの「つ」を言ったとたん、終わってしまった。
異例の梅雨明け。
どの新聞にも、そんな見出しが並んだ。

どうやら異例なのは、梅雨だけではないらしい。

毎年張り切って梅干し作りにはげむ祖母が、今年は 3kgしか作らないという。

3kgでもすごいが、作る量を減らすというのは衝撃だった。

なんといっても、梅干し作りは祖母が毎年大切にしている、「仕事」だ。いつも祖母の分とわたしの実家の分、あと親戚2家族に分けるので、毎年大体10kg近くの梅干しを祖母1人で漬けていた。


「なんで?もうしんどいの?」
と尋ねると、彼女は首を振って否定した。


「違うよ。みんなそれぞれに、家庭を持ったり就職したからな。食べる人がおらんくなったんや」

祖母は、ちょっと悲しそうに、わたしの目を見て、そう言った。


今年、1番年少だった従姉妹が大学を卒業し、就職。これで身近な親戚に学生の子はいなくなった。親戚2家族とも夫婦だけの生活になり、「梅干しを食べる人がおらんくなったから」と今後の梅干しを断ってきたのだとか。


ああ、そうか、そうなんか、と時の流れの速さを感じつつ、そのことに気づかないふりをして、何も変わらず生きている自分は、間違っているのかもしれない。

⭐︎


上から順番。みんなそう、やってきたから。


6年程前、弟が結婚する、となったとき、はっきり母が弟にそう言っていたのを、今でもおぼえている。わたしもその場にいたけれど、気まずくて知らんふりをしていた。


確かにそうだった。うちの家系は皆、上から順番に結婚していた。そうして、次の「結婚番」がわたしにまわってきたのだけど、当のわたしはというと、人と人との関わりが大の苦手で、卑屈になるぐらい自信がなく、恋愛経験もほとんどなく、「結婚」なんてものは天上人がするものだと思っていたし、ひとりでいるほうが落ち着くなあと思っていたから、全然果たすことはできず。両親には申し訳ないけれど、そういうのとは縁がないのだと思い、グズグズと、のらりくらり、生きていた。


姉がこんなんだから、弟は「上から順番システム」であれば、本来彼はできないのだけど、そんなものはサッサとやぶって結婚して、昨年子どもが産まれた。その姪は一歳になったが、全然会えていない。


そして昨年は、従兄弟が結婚。結婚式は挙げずに、写真だけを撮ったらしい。先日、そのフォトアルバムを見せてもらった。「何時間もかかってめちゃくちゃ疲れた」と言っていたが、写真に収められたタキシードとウエディングドレス姿は、モデルさんみたいで、照れくさそうな二人のハニカミ顔が良かった。


そして、今年もまたひとり、従兄弟が結婚しそうな予感だ。

 ⭐︎

「みんなそれぞれ家庭をもったからな。もうみんな梅干しは食べへんくなったんや」

祖母は自分に言い聞かせるように、何度も繰り返して言っていた。

そうやって、ある程度の年齢になると、ひとり、ふたりと新しい家庭を持ち、ファミリーツリーをつくっていく。

また反比例するように、それは祖母の仕事が減っていくことも意味していて、仕方ないことだけれど、手放しの喜びだけではないものも、同時にあるのだと知る。


わたし自身も、そこだけ強調するようにリフレインして聞こえた。それは、自分が実はとても気にしている証拠でもあるんだ、ということに気づく。


例えば、バッグが欲しくなったら、道を歩いている人の全てのバッグが気になるように。
例えば、この人いいな、と思ったら、さりげなく薬指の指輪を確認するかのように。


変わらないのはわたしだけ。


「上から順番システム」に合わせられなかった。それに逆らって、追い立てられるように仕事をして生きているのは、恥なのだろうか。誰もそんなこと言っていないのはわかっているが、責められている気分になる。

責めているのは、周りの誰かじゃない。
一番、自分で自分を責めているのだ。

⭐︎

「母親は自分の娘が結婚していないと、自分が否定されている気持ちになる」

最近目にした記事にそんなことが書かれていて、母親がクスクス笑いながら、YouTube の赤ちゃんの面白動画を見るたびに、ドキッとする。

「息子の孫はな、その、やっぱりお嫁さんのほうにつくしな、なんか違うのよ」

「孫なんか別にいい」となぜか強がりを言うが、本当は会いたいのだと思う。会わせてほしいのだと思う。うんうん、とその立場になっていないから、そんなことをわからないくせに、わたしはうなずく。うなずくしかできない。


もし、わたしが、上から順番システム通り、結婚していたら。
もし、わたしが、子どもを産んでいたら。
もし、わたしが、素直でまっすぐでいい子だったら。


たくさんの「選ばなかったほう」が、泡のようにふわふわ浮かんでは、パチンと音を立てて消えていく。

「もし」なんて、考えるだけ無駄だけど、もし、母親が自分の娘が結婚していないことで、自分自身が否定されていると感じているとしたら、それはわたしのせいなのだと思う。

 ⭐︎

そんなことを考えていたら、同時に仕事がとても忙しくなった。辞める人の引き継ぎをわたしがやることになったのだ。先日の出張はまだ序の口で、とにかく必死だった。必死だったけど、その必死さはわたしにとって有難いものだった。
自炊も家事も全然できなかったけれど、「ああ、今日も生きたわ」と汚い部屋の真ん中で、毎日思ってそのまま寝た。


家に帰って、ドラマを見たり、小説を読む時間が癒しであり、「逃げ」だった。たった少しの時間だけど、この「逃げ」の時間だけはキラキラしていて、現実とは違う世界に連れて行ってくれたし、楽しかった。

必死さのなかに、求める楽しさこそ、自分を支えてくれるものなのだと、改めて思った。


上から順番システムにはのれなかった。
30代半ば、未婚。子なし。キャリアもない。
仕事が友だちではないし、むしろなりたくないし、いや、仕事もできる方じゃないから、きっと仕事の方からお断りだろう。
これだけ聞くと、「かわいそうな人」「将来どうするの?」と思われるかもしれない。


けれど、自分の幸せぐらい、自分でつくれるようになりたい、とわたしは思う。
自分の幸せぐらい、自分で見つけられる人になりたい。


それは、「ひとりで強く生きていく」ということではなく、どんな状況でも、自分の幸せに必要なものなのか、そうじゃないのかを見極め、柔軟に合わせていく力を養っていくことなのだと思う。


だから、「選ばなかったほう」は、きっとパチン、と消えて正解なのだ。


砂のようにサラサラとした「もし」が幸せを作るのではなくて、今目の前の現実こそが、唯一幸せをつくる「土」なのだから。

 ☆


冷蔵庫の奥には、昨年分けてもらった梅干しがまだ1つ、残っている。小瓶に入っている赤紫蘇だけで染められた梅干しはとても鮮やかだ。

おばあちゃんだけに出せる赤色で、どこにも売っていない、おばあちゃんの梅干しの味。

わたしはまだ、おばあちゃんのつくった梅干しが食べたい。味わいたい。

今年は梅干しを多めに分けてもらおうと思う。梅干しを食べて、毎日の幸せづくりのために、乗り切らないといけないから、こんなところで倒れているわけにはいかないのだ。

ありがとうございます。文章書きつづけます。