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あぁやさしくしたい、されたい

今週はクーラーが壊れているんじゃないかと錯覚するほどの暑さや、いつもよりずんと重い生理痛や、休み前に流れ込む仕事の書類たちにズブズブ埋もれて、手を地上に出すので精一杯だった。たすけて、という相手もおらず、誰も引っ張り上げてくれないので、自力でぜえぜえ言いながら、そこから必死の思いで這い出したときにはもう体力が残っておらず、そのまま寝てしまい朝を迎える、という生活が続いた。


くたくたに疲れていると、自罰に走る傾向にある。多分キャパオーバーするとどうしていいかわからなくてパニックになり、自分にイライラして当たってしまうんだと思う。あぁなんてだらしなないんだ、情けない、これは体力がないからだ、と思い、ふらふらの体でにんにく塩の唐揚げや、ねっとりしたハムとたまねぎとポテトサラダ、インスタントの冷凍餃子などガッツがつきそうなスタミナ食を晩御飯に選んで、連日食べ続けた。そしたら今度は胃を悪くして胃薬の世話になり、寝込んだ。今思えば満たされないものを暴飲暴食で埋めようとしていただけだった。しっかりバテて、水分とって休憩して、睡眠をとれば良かった。馬鹿なことをしたな、と思う。


あぁやさしさにふれたい。やさしくされたい。


そんなことばかり考えていたため、自然とCoccoばかり聞いていた。Coccoの曲は痛くてやさしい。全力でぶつかって傷ついて、孤独も悲しさも知っている、だからこそ紡ぎ出せるやさしさがあって、そこが聞いていてとても落ち着くのだ。通勤の時もお昼休憩中も、帰ってから夜寝る直前までCoccoの曲をぼーっと繰り返し聞いていた。『強く儚い者たち』『ポロメリア』『樹海の糸』『やわらかな傷跡』…。どの曲も聞いていて心地よいのだけど、特にしみたのは『ジュゴンの見える丘』だった。じわっと涙が滲んだ。


もういいよ 
目を閉じていい 
もういいよ 
少しおやすみ 
悲しみはいらない 
やさしい歌だけでいい 
あなたに降り注ぐ全てが
正しいやさしいになれ 

もういいよ 
目を閉じていい 
もういいよ 
少しおやすみ
 笑っていてほしい 
守るべきものたちに 
明日も訪れる何かが
正しいやさしいであれ 

この曲は、Coccoが2007年6月に、2頭のジュゴンが大浦湾で泳ぐ様子をテレビのニュースで見たのをきっかけに、生まれた。

フォトエッセイ『想い事。』にも書かれていたのだけど、沖縄には本当に「ジュゴンの見える丘」というところが在って、それはとても美しい場所なのだという。(この『想い事。』、写真も文章もすっと入ってくる、とても素敵な本なのだ。アメラジアン、という言葉もわたしはこのエッセイで初めて知った。)



今のわたしにとって正しいやさしさってなんだろう、と思いながら日々を過ごした。ガッツがつきそうなスタミナ食を晩御飯に食べることではないことは、確かだった。のんびりしたい、休みたい、何もしたくない。人と比べたくない。あ、ちょっと笑ってみたい。終わりよければ全て良し、というけれど、1日をせめて笑って終われるようにしたいかな、と思うようになった。実際寝る前に少し笑うと、それだけで気持ちが楽になった。


わたしは気も利かないし、決してやさしい人間ではないけれど、自分にやさしくできないと他人にもやさしくできないとは本当のことなんだろうなあ、と思う。自分に余裕がないのに他人にやさしくしろというのは正直無理な話だ。逆に相手の余裕のなさには気づいてあげられていただろうか。自分のことばかり主張はしていなかっただろうか。相手にも相手の事情があり、それでもやっちゃいけないことはあるし、言ってはいけないことはあるからその時は全力で怒っていいのだと思うけれど、ある程度は汲みとれる余裕をまず自分から作り出す必要があるのではないか、と思った。


暑いしどこにもいけないし、少しゆっくり休もうと思う。そもそも休みはのんびりゆっくり、時を感じるためにあるものなんだよなあ。自分にやさしく、人にもやさしく、真ん中笑えなくても、1日の最初と最後は笑って終わる、でね。そうやって、精気養って、また頑張ればいいじゃない、と思っている。



ありがとうございます。文章書きつづけます。