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心が死ぬ前に

「確かに髪の毛切らないぐらいで死なないけどさあ、心が死んでいくよね」

美容師さんはそう言いながら、サクサクと小気味よく、ハサミでわたしの伸びきった髪を切りおとしていく。わたしは鏡の前に置かれている雑誌を取ろうと手を伸ばしたが、一瞬躊躇してしまった。4ヶ月前なら、この雑誌は誰が触ったんだろう、なんて考えなくてもいいことだったのに。すっかり慣れてしまった、さわったものへの消毒癖に自分でも驚き、なぜかどこかの誰かにとても申し訳なくも思ってしまう。自粛開けということもあり、美容院はいつもよりも混み合っている。

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正直今日、美容院に行くのは迷った。

自粛があけたとはいえ、未だ会社は自粛ムードが漂っている。生活に直接の関係のない美容院は、まだなんとなく行きづらい雰囲気で、ちょっと恐る恐る来た。髪を伸ばしっぱなしで我慢して業務を行っているひとがいるなか、のこのこ美容院に行ったら、「え、美容院にいったの?」なんてこそこそ噂されそうで、ちょっとこわい。しかし迫りくる梅雨時期、また今後くるかもしれない第2波、第3波のことを考えると、もう今しかなかったし、毎朝鏡を見ると、ボサボサの髪が映る自分にげんなりするのには、そろそろ耐えられなかった。

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多分誰もが今、心の発熱状態にあると思う。きっと少し前は高熱だったんだろう。(ちなみに日本感染症予防法によると、体は37.5度以上を発熱、38℃以上を高熱と定めているらしい) 体の中の熱が下がらないうちは、熱を外に出そうとカッカカッカ体が火照るけれども、きっと今の人の心にも同じようなことが起きている。

過剰な誹謗中傷、怒り、悲しみ。それらは心の熱となり、それを出そうと、誰かのせいにして、誰かを傷つける。特に匿名という現実の自分を偽れる、そして隠せる場所では、それはとても好都合だ。もちろん、そのような行為は決して許されることではない。

誰かに誰かの心を殺す権利などない。

そんなことをしても、自分の心の熱が下がらないことぐらいはわかっているはずだ。逆にこんな今だからこそ、心の熱を自分で下げる方法を、自分の気分を良くする方法を、見つけられると思う。そして心を鍛えて免疫をつける方法を。いや、もうすでに見つけた人も多いだろう。

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「10万円で何します?」

 美容師さんは、手袋をはめて、毛染めをしながら、今度は自分の欲しいものをつらつら並べて言う。靴、バッグ、ピアス…。さすが美容師さんだけあって、お洒落さんだなあと思う。わたしはマスクも10万円も寄付しようかと思っていたけど、やっぱり10万円の申請書が実際届いたら気が変わってしまった。普段一生懸命働いて税金を納めているのだから、それが返ってきたと思えばいいか、って。欲がないほうだと思っていたけど、やっぱりこんなところに出てしまうのが、自分も人間なんだなあと思う。愚かさや醜さは、こういった不測の事態のときに出るのだろう。これが本性だ。聖人君子になんてなれないわ、一生。

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「はい、おわりね」

 鏡で後ろ姿見せられる。随分短くなった。これから夏だし、ちょうどいい。切り落とされた髪の毛は結構な量になっていて、あぁこんなに伸びていたのか、と改めて思った。ちょっとしたカツラができそうだ。(わたしはカットが終わったあとの、床に落ちた自分の髪の毛を見るのが好きなのだ)鏡に映った自分は、前髪を切ったのもあるけどすっきりして、晴れ晴れとしていた。

そのあと家に帰って、誰にも見せないけれど、お気に入りのイヤリングをつけて、お気に入りのワンピースを着て、思いたったように料理をした。自然と鼻歌を歌っていた。楽しい。誰も見ていないから踊り出したかったけれど、それはちょっと恥ずかしくてやめた。お気に入りたちはなくても確かに死なないかもしれないが、心が元気になっていくのがわかる。

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次の日、会社に行った。
髪の毛を切ったことは、だれにも触れられなかった。会社のひとたちがどんな顔をしていたのかはわからない。

でも心が死ぬ前に、美容院にいってよかった、と思った。

最後にこの動画を貼って終わりにする。


ありがとうございます。文章書きつづけます。