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もし、生き方のレシピがあったなら
最近、思い立ったようにお菓子づくりをしているのだが、これがなかなかうまくいかない。
この前焼いたクッキーは、なぜかぽたぽた焼きのような、かたいせんべいになった。
「混ぜるだけでできる」というバナナのパウンドケーキは全然ふくらまず、なんだか、もっちゃりした食べものになった。
そして最新はこれ。
なんともいえない微妙な笑いでごまかしているが、一応クッキーである。
見切り品のかぼちゃが半額で売られていて、まあハロウィンだしなあ、と思って作ってみたのだけど、イメージではもう少しサクっと焼けているはずなのに、フニャッとしたクッキーになってしまった。(ちょっとお化けっぽく見えないこともない)
なぜこうなったのか。
理由は単純で、書いているレシピを守らないからである。はかりがないので、計量カップで材料をはかり、もったいないとばかりに砂糖やバターをケチって、代用で他のものを使ったり。
これでは美味しいお菓子ができるはずもない。
わかっちゃいるけれど、書いているレシピを忠実に守ることよりも、「こうしたらどうなるんだろう」という好奇心がむくむくとわき、いつもレシピとは全然違う方向に走ってしまう。
まあ失敗するだろう、でももしかしたら万が一で成功するかもしれないしな、なんてドキドキしながら材料を混ぜ、できあがりを待つのだ。
どうやら、わたしはお菓子作りをするとき、「美味しいものを食べる」ということに、楽しみの目的をおいていないらしい。
それよりも、「あぁしたらどうなるんだろう」「こうしたらどうなるんだろう」と思い、何ができるかわからない状態で、「作ること自体」に楽しみの目的をおいているようだ。
ふと、もし、「生き方」や「人生」にレシピがあるのなら、ということを考えた。
「こんなふうにすると、貴方は幸せになりますよ」、というできあがりのイメージ写真があって、何歳のときにはこうしてください、ああしてください、というメモに沿って、わたしはただその通りに生きていく。そしたら幸せになる。
…のか?
もしそういうレシピがあっても、わたしはレシピには従うことができないだろう。確約された「幸せ」のイメージに沿って生きることよりも、「あぁしたらどうなるんだろう」「こうしたらどうなるんだろう」という好奇心が抑えられず、どこかできっと、色々試したくなるに違いない。レシピのメモは、きっとなくしてしまうだろう。
そういえば前の職場で、
「わたし、2年後には2人目妊娠してるんで」
と言って、本当に2年後に産休に入った人がいた。
話を聞くと、全部計画通りに生きてきたひとのようで、30歳までに結婚、その2年後に1人目、またその2年後にもう1人目、と決めて全部実行しているそうだ。
なんでもかんでも行き当たりばったり、無計画のわたしは、
「す、すごい」と思った。
彼女は彼女なりのレシピに従って、幸せを向かって走っているのだなあ、と思った。
けれど、なぜか彼女はいつも怒っていた。そして苦しそうだった。
「そんなコンビニ弁当ばかり食べていたら妊娠のときとか困りますよ」と言っているときも、皆の前で子どもがいる素晴らしさを語っているときも、彼女はレシピ通り、幸せになるほうに行っているはずなのに、苦しそうだった。
彼女は復帰したけれど、そのあと、すぐ辞めた。
「苦しそう」なんて、わたしのひとりよがりな見方だから、本当はどうかわからない。
いつも好奇心を優先して、面白そうなほうをとって生きてきたわたしより、ちゃんと未来の自分の幸せを描いて、レシピ通り生きている彼女のほうが、最後笑って「いい人生だった」って言えるのかもしれない。
思ったのは、レシピがあってもなくても、生きるということは大変で、面倒くさくて、しんどい、ということだ。
レシピがあるから生きるのが楽、ということではない。
レシピがあっても、動くのはどうせ自分だ。でもどうせ動くなら、わたしは幸せをかみしめられるように、楽しみを感じられるように動きたい、と思うのだ。
今度はレシピを守って、ちゃんとお菓子作りをしてみようかな、と思った。
でもね、このかぼちゃのクッキー、味は全然悪くなかったんだよなあ。
ありがとうございます。文章書きつづけます。