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アラスカを想像して、腕時計をそっと外す 【#読書の秋2022】


わたしの日常といったら、本当に冴えないものである。


毎日時間が来たら会社へ行き、1日中パソコンの画面と向き合う。皆の様子を窺いながら、時間になればお昼休憩をとる。お昼休憩が終わったら、銀行の窓口が閉まる15時ごろまでに両替に行く。常に空調が効いてブラインドが下がった部屋の中は、暑いのか寒いのかもわからない。スイッチを切らない限り、LEDの煌々とした人工的な光のもとで働いているので、太陽がいつ沈むのかもわからない。壁にかかった時計の針を見て、慌てて机周りを片付けて、帰る準備をする。更衣室で着替えて外に出ると、そこら中の居酒屋のネオンがピカピカ光っている。初めてここで、今日も1日が終わったのだと思う。


季節はスーパーやコンビニで売っている食べもので感じることが多い。それまで見向きもしなかった、ほくほくの肉まんやおでんが気になりだすと「冬だな」と感じる。「桜味」が強調された、やさしいピンク色のスイーツが並んでいると、「春だな」と感じる。夏は冷やし中華、秋はかぼちゃプリン、といった具合だ。


だから、アラスカでの季節の感じ方を読んだとき、ボタンをかけ違えたような、でもそれは直してはいけないような、居心地の良い違和感を感じた。

アスペンやシラカバの葉が黄に色づき、ツンドラの絨毯がワイン色に染まると、短いアラスカの秋が始まります。新緑のピークがたった一日のように、紅葉のピークもわずか一日です。

『旅をする木』「北国の秋」文春文庫 p25


四月のアラスカは、姿は見えなくとも、そろそろ雪の下からクマの気配を感じ始めるときである。

『旅をする木』「早春」文春文庫 p109

新緑のピークが1日、紅葉のピークが1日で終わる、そんなことがあるのだろうか。クマの気配とはどういう気配なのだろう。匂いとか、するのかな。全然ピンとこなかった。

そして思った。
一体自分は何を基準にして生きているのだろうか、と。考えたところ、わたしはありとあらゆるところに設置されている時計を基準に生きている。

逆にいえば、わたしは時計がないと何もできない。時計で表される数字がないと、1日の終わりすら感じられない。天気予報の気温や降水確率の数字を確かめないと、雨が降るかどうか、寒いか暑いかどうか、そんなこともわからない。現在そういう生活をしていて、それがわたしの日常で当たり前になっているのだということに気づかされた。

『旅をする木』のなかでも「もうひとつの時間」は、特に印象に残る話だった。この話のなかに、東京で忙しい日々を過ごす編集者が、クジラを撮影する星野さんの旅に1週間同行するエピソードがある。その旅中、彼女の目の前で一頭のクジラが飛び上がり、圧倒される。

「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったかって?それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと…」

『旅をする木』「もうひとつの時間」文春文庫 p123

そのあと、星野さんはこうつづっている

ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。

『旅をする木』「もうひとつの時間」文春文庫 p123


わたしはこの編集者のように、アラスカに行くことはできない。想像することしかできない。

けれど、地球のどこかでザトウクジラが舞っているとき、ワスレナグサが開花しようとしているとき、自分の日常は本当に冴えないことばかりなのだろうか。またそこにも小さいけれど、違う時間が流れているのではないだろうか。そんなことを思った。

 ☆

それから腕時計を外して生活するようになった。

まるで体の一部のように、腕時計を当たり前にしていたけれど、本当は好んでいなかったのかもしれない。なにかに常にしばられている感覚や、逃げられないプレッシャー。ここから多分出たかった。そういうものから解き放たれたかった。

腕時計を外してから、見えるものが多くなった。

ある日、百均のレジでお会計を済ませた親子がいた。お父さんはスタスタ歩いて駐車場に向かっている。3歳ぐらいの男の子もお父さんのあとによちよちとついていこうとしたが、急にレジのほうを振り返り、店員さんに小さな手をバイバイ、と振った。誰にも見えないように、こっそりと。高校生ぐらいのアルバイトの店員さんは一瞬びっくりしたのか、戸惑っていたが、少し恥ずかしそうに照れながら、バイバイ、と小さく手を振り返していた。

なんかいいなあ、と思った。

またある日はこんな光景を見た。

自転車に乗っていると、前から黄色い帽子をかぶった、小さい集団がやってきた。社会科見学だろうか。小学校の先生たちは、乱れた列を直すのに必死で、「もっと右に並びなさい!!」とイライラしたように、大きな声を張り上げている。子供たちは先生の言うことを聞いているようで、聞いてない。そのうち生徒同士で肩気合いが始まって、先生の声はさっきよりも大きくなった。黄色い大きな集団は、大きくうねりながら、前に進んでいった。


その集団から随分遅れて、黄色い帽子をかぶった1人の男の子が、前から歩いてきた。どうやら、さっきの集団と同じ学校の生徒のようだ。隣には先生がいて、2人で楽しそうに笑っている。何を話しているのだろう。とてもゆっくりと、周りの景色を見ながら歩いていた。何があっても自分たちのペースで、遅れても気にしない、という感じだった。

なんかいいなあ、と思った。

つい昨日のこと。

コンビニのすぐ外側で、一本だけ真っ赤に葉が染まった木を見つけた。他は黄色とか、黄緑色のグラデーションの葉をつけているのに、その1本だけスッと背筋が伸びたような、堂々とした出立ちで、赤いお洋服を身につけていた。周りを歩いている人は、スマートフォンに夢中になっている。皆が気づいていないものに気づいたことが、嬉しかった。

アラスカに行く人は「特別な人」だと思っていた。「特別な選ばれた人」だから、こういうところでやっていけているのだと思っていた。

なぜならそこは氷河の上空をオーロラがゆらめく、マイナス五十度の環境。ザトウクジラが悠々と舞い、数千頭のカリブーの群れが移動する。クマが目と鼻の先にいる。厳しい自然の中で暮らすことは、生と死の常に隣り合わせだ。

自分とは全然違う、大自然での生活。特別な日常。そのことばかりを自分のなかでクローズアップしていたけれど、そうではないかもしれない、と星野さんの丁寧につづるアラスカでの日々を読んで思った。

星野さんは行きたいところに行って、暮らした。そこが大自然のあるアラスカだった、というだけで、彼にとっては日常であり、また愛したものだったのだ。

色々ごまかされて見えにくくなっているだけで、わたしの生活にも生と死はある。大切な人と過ごす時間やつながり、自然も確かにある。

そう考えるとひとりひとりの日常は、平等で特別なものだと思う。

わたしは多分これからもアラスカに行くことはないだろう。もし万が一行ったとしても、今のこの自分の暮らしている場所に帰ってくるだろう。

それは冴えない、と思うかもしれない。また始まった、と思うかもしれない。それでもゆったりした時間が確かにここにも流れている。アラスカにも流れている。それを忘れないようにしたい。

そして、自分に今関わる人たちや、生活や暮らしを大切に、日々生きていけたらなあと改めて思った。

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