小さなわたしときんぎょの夢
※ネガティブな記事となっています。以下自己責任でお読みください。でも関取花ちゃんの『きんぎょの夢』はとても素敵な曲です。※
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人間の身体の60%〜70%が水でできているように、思い出や記憶もそうだと思う。良い記憶が70%ぐらいあれば、何かあってもまた良いことが起こるだろう、と考えられそうだし、悪い記憶が70%ぐらいあれば、何かまた悪いことが起こるんじゃないか、と考えてしまう。
雨の日やすっきりしない曇りの日が続いている。洗濯ものは乾かないし、気分もどんよりするけれど、特に困ったことは、悪い記憶のなかから「小さなわたし」がいつもより強く引き出されることだ。
彼女はわたしの心のすみっこに居座って、頭を抱えながら三角座りをして、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けている。
誰に?
おかあさんに。
先生に。
友人に。
「小さなわたし」は、その名の通り、幼い頃のわたしの記憶だ。「小さなわたし」は人一倍どんくさくて、間抜けで、周りの足を引っ張っていたため、怒られてばかりだった。勉強もできなくて、理解力するのに時間もかかるから、なんでできないの、と怒られる。図画工作や家庭科の課題提出も、ワンテンポ遅れる。運動会のリレーでも足が遅かったため、わたしのところで抜かされてチームに迷惑をかけて、白い目で見られる。どうも皆と同じようにしたくても、なかなかできなかった。
周りに合わせられなかったら、見捨てられてしまう。いつもそんな風に思っていた。子どもにとって見捨てられる、ということは、いのちに関わる問題だった。見捨てられたら生きていけない。
大人は怖かった。
その様子は角が生えた鬼。
優しい大人なんていなくて、いつとって食われてもおかしくない感覚に陥っていた。
大きな体でのぞき込むように自分を見て、気に入らないことがあれば大きな声で自分を怒る。
大人の「気に入らないこと」とは何だろうか。
悪いことをした子どもだった。
自分の思い通りにならない子どもだった。
何が悪いのかわからないまま、恐怖心だけが残った。
大きい鬼の手が訳も分からないまま自分の頭に向かって飛んできたとき、暗い部屋の隅っこで頭を抱えて「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣いていた記憶が、今もずっと残っていて消えない。
「小さなわたし」の周りに笑顔はなく、いつも怒った顔のひとたちばかりだった。
全部自分のせいだと思った。
自分がいなければ、皆もっと幸せになれるんじゃないか、と小さいながらに思った。
多分この記憶が今のわたしをつくっている。
自分が大人になればその記憶も消えるものだと思っていたけど、全然消えなかった。その代わりに、「小さなわたし」は大人になった自分を恐れるようになった。「小さなわたし」は、大人の自分、つまり今の自分を見て、「ごめんなさい、ごめんなさい」と暗い部屋のすみっこで謝るようになったのだ。
うまくできなかったとき。
不注意で失敗をしたとき。
その不注意の失敗で相手に嫌な思いをさせてしまったとき。
雨の日や天気の悪い日は、特に「小さなわたし」の存在が大きくなり、手がつけられなくなる。
一方、大人のわたしも、そんな記憶から出てくる「小さなわたし」とどう向き合っていいのかわからなかった。
わたしはわたしが、好きではない。
それを知っているからだ。
だからなのか、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝っている「小さなわたし」に対して、どう接していいか、わからない。
それ以上に言っても、嫌われてしまうかもしれないから。
ねぎらいの言葉をかけてあげたくても、また責めてしまうかもしれないから。
ごめんね、と言っても、「小さなわたし」は許してくれないだろうな、と思ってしまう。
わたしはわたしを、一番許せないのだと思う。
こういう時、好きな音楽を聴いて笑ってみる。
そしたら、ちょっとだけ「小さなわたし」は泣き止むような気がするのだ。
今日は『きんぎょの夢』を聴いた。
関取花ちゃんのリリースされたばかりの曲だ。
きらきら光る 鱗はね
もろい心を守るため
いつの間にやら 増えちゃって
あたしもあたしがよくわからない
わたしも気が済むまで泣こう、と思う。
ありがとうございます。文章書きつづけます。