見出し画像

多様性社会というディストピアについて

「みんな違って、みんないい」
「ナンバーワンよりオンリーワン」
このような言葉を日本では日常、よく耳にするし
メディア等に乗せられて「多様性って大切」と思っている人も多いだろう。
しかし、心から、そう思えている人はどのくらいいるのだろうか?

集団にそれほど上手く馴染めた経験のない僕は甚だ疑問に思う。

日本には、幼少期から異物を排除する文化・慣習があると感じている。
子どもの間で発生するいじめ問題もその一端だと思うし
教師も「社会性の教育」の名の下に
みんなと同じことをしない・出来ない生徒を冷遇し、自尊心を傷付ける。

僕の育った県は管理教育で有名な地域のため
余計にそう感じるのかもしれないが…

教師たちは意欲関心態度の評価点を利用して

・ノートの字が汚いと減点
・みんなと同じ解き方をしないと減点
・なんか落ち着きがない奴は減点 etc

といった指導方法を取り、生徒たちをコントロールしていたように思う。
結果的に「みんな一緒がいい」と思う人間たちの出来上がりである。

社会に出てからも「みんなやってるから」という謎ルールで自らを縛り
やることないのにサービス早出にサービス残業を繰り返し
後輩が自分と同じやり方で仕事をしないと
(たとえ結果が出ていても)苛立つ人などはたくさん見てきた。

集団に馴染めない人は生きづらさを嘆き、
発達障害と診断されれば、待っているのは長所を伸ばす支援でなく
就労を前提とした人格・行動の矯正訓練を受けることも多いのではないだろうか。
まるで刑務所かのような指導をする支援者も残念ながら見たことがある。
更に残念なのは当事者自身や親が「皆と一緒がいい」
そのような指導を望んでいる場合があることだ。

僕なら「そのままでいいよ」「ありのままでいいよ」と言ってしまうことだろう。
しかし、それに対して「無責任だ」という批判が来るのは当然だと思う。

なぜなら現状では、ありのままの生き方というのは一部の経営者や投資家、クリエイターなどの多様性特権階級と言ってもいい人達にだけ許される生き方だからだ。

例えば、僕は経営者の端くれなので、自分の仕事を自分でコントロールできる立場にいる。
なので落ち着きがなかろうと、片付けが顕著に苦手であろうと
周囲から余計な圧力を受ける事は無いし
幸いな事に、僕の少しデリカシーの無い態度に腹を立てる人も周囲にいない。
ある程度、ありのままに生きることが出来ているような気はする。
だが、僕は自分が幸運で恵まれた立場にあることは自覚している。

現在の状況では余程職場とウマが合わない限り、労働者側の人がありのままの生き方を体現するのはなかなか難しいのではないだろうか。

経営者が多様性を認めるよう理想を掲げていても、その部下が生来培った常識というルールに縛られていて、現場では自他ともに多様性を認めない空気が醸成されていたケースを見たことがある。

これでは、他人と違う特性を持ち、
悩んでいる人の方から「みんな一緒がいい」
多様性を認めない社会に合わせようとしてしまうのは当然のように思える。

彼らにとってはメディアに出ているような多様性特権階級の人達が
「多様性は大切だ」と叫んだところで、空しいだけだ。
むしろ怒りすら覚える人もいるだろう。

今後、将来…一体いつになるかは分からないが
リモートワークやワークシェアリングなどが浸透し
働き方の多様化が(勤労者の不利にならない形で)本当に実現したとすれば
幾ばくか救われる人も出てくるかもしれない。

だが現状の教育システムのままでは、
その際に何をすればいいか分からない人が多数現れるのではないだろうか。
多様性が大切だという社会を実現する為に
まずは、長らく変わっていない教育システムの改革が必要だと感じている。


最後までお読みくださり有難うございました。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?