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不登校19万人時代に、元不登校が思うこと

文科省の統計によると、2020年度に不登校だった小中学生は19万6127人でした。8年連続で増加し、過去最多となりました。少子化で子どもの数自体は減り続けているので、不登校の割合がどんどん増え続けていることになります。

コロナ禍による休校で、学校がもともとイヤだったけどなんとか惰性で行き続けてた人が、緊張の糸が切れてしまい、登校できなくなってしまうケースもよく聞きます。しかし、コロナ禍になる前から一貫して不登校は増え続けているわけで、そこには日本社会が抱える構造的な要因があります。

構造的な課題は大きく分けて3種類(①不登校が直面している困りごと②教育現場の課題③企業・社会の課題)ありますが、まずは、①から整理します。

不登校自身が本当に困っていること

不登校と一口にいっても、19万人のひとりひとりが異なる理由で不登校状態になっています。しかも、様々な背景が複雑に絡み合って、言語化そのものが難しいです。

学校の環境だけでなく、親や友達との人間関係もきっかけとなります。鬱病と診断されるケースもあれば、机にじっと座ってひたすら暗記をするという学習スタイルが向いていないADHDのケース、情報・感覚の処理・統合の仕方が周りと異なり、人間関係の構築につまずいて疲弊してしまうASDのケース、自律神経の不調で朝起きるのがだるすぎて行動不能になってしまう起立性調節障害のケースなどもあります。

そして複数の要因が絡んで、どこから手を付けてよいかわからない悪循環が発生していることもあります。

そもそも、こうした医学モデル的な分類で原因探しをすることにも功罪があります。医者などの専門家が、当事者の困りごとに病気という名前を付けることで、当事者自身が「自分は怠けているわけではなく病気だったんだ(だから学校に行けなくても仕方なかったんだ)」と安心するケースも、たしかにあります。

一方で、「患者」や「障害者」扱いされることで余計に傷つくというケースもあります。ただでさえ苦しんでいるのに、その苦しさの原因を自分に帰せられているように感じるからです。

自分自身も、不登校・ひきこもりだったときに親に無理やり精神科に連れていかれたときは「お前が悪いんだから、お前が治りなさい」と暗に言われているようで不快でした。さらに、精神科医に「抑うつ症」と診断されたときも、なんとなく後味の悪い、嫌な気持ちになっただけで、安心とは程遠い感情に支配されたのを今でも覚えています。

では、不登校自身が本当に困っていることとは、一体なんなのでしょうか? 

学校への不安

不登校は昔、登校拒否、と呼ばれていたこともあります。しかし、本人の意志で明確に「学校に行かない」という決断をしているケースは少なく、「学校に行きたくても行けない」というケースが多いです。学校に行っても、いわゆる「いじめ」の被害などで人間関係が壊滅的だったりするケースもあれば、学力的に授業についていけない、授業に集中し続けることが難しく、周りと比べて劣等感を覚えてしまうというケースもあります。

また、「なんとなく」学校に行くのが嫌になったり面倒くさくなったりして、一日、二日と行かなくなったら、また「なんとなく」学校に行って周りに色々言い訳するのが面倒くさくなって、そのままずるずると学校に行かない毎日を繰り返しているだけ、というケースもあります。

共通するのは、「今さら学校に戻るのは気まずい。クラスに馴染めるか自信がない」という、漠然とした不安です。

働くことへの不安

「学校に行けなくてもバイトでもすればいい。実際に働いてみたら学歴の有難さ、せめて高卒・大卒の資格がないと碌な仕事がない現実がわかるはず」と主張する人がいます。

これはたしかに正論です。正論なのですが、不登校本人としては「学校にも行けない自分がバイトなんかできるはずがない。そもそも社会でやっていける気がしない……」と自信を失っているケースも多く、学校以上にハードルが高い、というのが正直なところです。

スキルが無くてもできるバイトと言えば、カフェやコンビニでの接客ぐらいしかありませんが、これはクラスメイトにばったり出会うかもしれないので気まずいですし、そもそも昼夜逆転に近い不規則な生活をしているので決められた時間に決められた場所にきちっと出勤して上司や先輩の指示通りに動くというのは、相当のエネルギーを消費する行動です。

そして、ブラックな雇用環境のニュースがあふれる中、そもそも日本の会社で働くのが怖い、という不安もあります。何も学校に行くのが唯一の正解ではないですが、既存の教育システムも、就労システムも、なかなか不登校の次のステップとして敷居が高いのです。

居場所への不安

「究極的には、学校に行かなくとも、無職でも、親しい友人が2,3人いればよい」という達観した考え方もあります。

しかしながら、この主張は言うは易く行うは難しの典型例です。そもそもそうした社会的な接点(社会関係資本)をなんらかの理由で持てないので、不登校状態になっているわけです。学校に行けなくても、他の居場所があるよ、と言われても「学校にすら行けないのに、他のところになんか行けるわけがない」と抵抗感を持ってしまう人が多いのです。

そもそも、イバショと呼ばれる場所は、そんなに居心地がいいわけではありません。ただ、居るだけを目的とした場所というのは、人生においてあんまり存在しない不自然な空間だからです。

人生における自然な空間と言うのは、なんらかの目的のために集まった人たちで構成されます。学校は教育目的の空間ですし、職場は労働目的の空間です。そうした空間で、たまの息抜きとして雑談したり愚痴を言い合ったりするから楽しいのであって、「はい、今日からここに居ていいですよ!」といきなり言われても、逆に不安になってしまいます。どう考えても持続可能性がない、人工的な場所のように感じられてしまうのです。

フリースクール、フリースペース、適応指導教室など、民営・公営問わず、様々なイバショは整備されています。しかし、その利用率は、不登校全体の中の数%に過ぎません。そうした施設への不安・違和感を持つ人の方が圧倒的に多いのです。

では、不登校自身が本当に困っていることをゼロベースで言語化してみると、どうなるのでしょうか?

その問いへの答えについては、次の記事で書いてみたいと思います。


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