見出し画像

創価学会の活動をしないとどうなるのか実験中です

創価学会員 5世 未活動のゆるめです☺
今日は、学会活動をしなくなった理由をお話しようかと思います。

今は、自主的に活動をしていません。
タイトルにあるように実験している感覚です。
実験してみようと思った理由を今回はお伝えしますね。

”未活動”という言葉

「未活動(みかつどう)」は、おそらく学会用語ですよね。
当たり前のように使っていて、違和感がありませんが、よく考えたら「いまだ活動せず」という意味になりますよね。
今は活動していないけど、活動する可能性を含ませてることがわかりますね。
学会員さんとして籍があるものの、活動はしていない人を表す言葉です。
その逆は、活動家(かつどうか)です。
「活動家大会」というように、会合名に”活動家”が入ったものもありました。
※正しくは、会合名では"活動家"をそのままではなく別の言い方で表す場合が多かったのですが、あえてそうしているかもしれないので、別の言い方は伏せておきます※

私はこの会合名が嫌いです。笑
活動家しか参加したらあかんのかって思いますし(※未活動でも参加していいです。ただ、内容が濃いだけです)、未活動の人が会合行ってみようと思ったときに”活動家”がついていると躊躇してしまいます。
私自身、活動に波のあるタイプでしたので、実感しています。

活動をしなくなった理由

本題です。
活動をしないと決めた理由は、しないとどうなるのか気になったから。

「それだけかよ!?!思ってたんと違う!」と思われた方、すみません。
しかし、自分から、前向きに「試してみよう」と思って活動をしない選択をしたのは、私にとっては結構大きな出来事でした。

私は、元々、活動に波がある方でした。
特に、役職に就く度にしんどくなって「私なんぞ、部員さんにアドバイスできるような人間ではない。やっぱり無理。ちゃんと活動ができない自分はこの役職に相応しくない」と、自己否定し活動ができなくなって苦しんでいました。
なので、今までは活動を少ししかできない・又はしていない時は「本当はちゃんと活動したいのにできない」状態でした。
活動をしていなくても、本部幹部会という全国中継の会合は観るだけでいいので参加していました。

しかし、今回はそうではありません。前向きな「しない」選択なのです。
そうしようと思った理由を詳しく書くので、もう少し読んでってね。笑

それは大きく分けて2点あります。
一番大きい理由は「本来の教えと、自分の状態が反比例している」ということでした。
その次に、「創価学会の体制や周りの学会員さんの考え方と自分の考えに差がある」こと。

活動しなくなった理由の詳細①

①「本来の教えと、自分の状態が反比例している」
私は、法華経を根本にした日蓮の教えを受け継いだ、創価学会の教えの本質には共感していますし、これは普遍的なことであると今でも思っています。

私は自我が芽生えた頃から、学会が生活にありました。
だからとは言いませんが、私のどこかに「お題目をあげてるからなんとかなっている」という考えがありました。
毎朝「健康・無事故を祈ってるから、無事故で生きてこれている」とか、「お題目をあげているからこの優しい心で居られている」とか。
それは結局、素っ裸のありのままの自分への否定に繋がっていました。

しかし、そんなことを学会・日蓮・法華経(釈迦)は説いていません。
自己卑下はしないように言われています。
むしろ、自己肯定感が根付くための教えなんです。
自分の、そして人類の幸福のためにあるものですからね。
お題目をあげて、その良い状態になるというのも、本来自分の中にあるものが出てきているだけなんです。
本来持っているからこそ、否定する必要はないんですよね。

持っているから出てきているとわかっているのに、卑下してしまう。
これは、学会の在り方や親の伝え方の問題でもあるし、捉え方にもよると思います。

活動をしなくなる前、私の中では人生で一番活動していました。
大変でしたがやりがいも感じていました。
今までしたことのない10時間唱題にも挑戦してやり切りました。
その時、不思議な体験もしましたし、功徳とも思えることもありました。
自分でも、やっとここまで来れたかって感覚でした(謎)
そして、副本部長になりました。

けど、その後、だんだん疲れてきたんですよね。笑
同じエネルギーで活動することに。ずっとこれが続くんかって考えると疲弊してきまして。
別にね、自分のできる範囲でやればいいんですけど、それが上手くできないんですよね。私は。

また、副役職になったので、直接的に上からの連絡が来なくなって「居る意味あんのかな」と思い始めました。
お題目をあげる(唱える)量も減ってきたころに、大変なことがあり、そこで「やっぱりお題目あげてないからこんなことに…」と思った瞬間、なんか、プツンと「もうこうやって、お題目あげてないからって思ってしまうことすら飽きた!!しんどい!!」ってなったんですよね。

自分を受け入れるどころか、自分には自己肯定感がほぼ皆無だと気付きました。
学会に居て、”自分らしく”いられた瞬間がどれだけあったんだろうか?と。

生まれたときは学会員じゃなくて、折伏されて納得して学会員になった人の方がよっぽどイキイキしているといつも感じていました。
本当にその教えを体感しているのは、折伏された人の方なんじゃないかな~と羨ましく思うこともありました。

私は、学会活動している中での様々な体験はしているけど、”学会活動がない”状態は知らないのです。それを体験しよう!と思いました。
学会活動をしなくなった自分がどんなか知りたいと。
その好奇心が勝ち、活動をストップさせました。

活動しなくなった理由の詳細②



②「創価学会の体制や周りの学会員さんの考え方と自分の考えに差がある」
簡単にいうと、「この教えを学んでるのに、なんでこういう体制なんだろう?なんでそういう考え方なんだろう?おかしいよね??」と思うことが元からありました。
長年抱えてきた疑問でしたが、私が未熟なのかと思っていました。
それが、時代の流れとともに、自分の考えは間違っていなかったと確信を得ることになりました。
そこで、私は今は学会にいる必要はないんじゃないかなと感じたのです。

①の理由も相まって、一度離れてみようと決意しました。
体制や考え方の具体例は下記に記載しました。

服装規定がよくある→時代とともにゆるやかに
会合や所属グループによっては、服装規定や制服がありました。
とても疑問でよく文句を言っていました。
特に、女子部はスカートと言われることが多かったので、14年くらい前から私にとっては「色んな人がいるのに、視野狭すぎワロタ」状態でした。笑

役職が自分より上の人によく相談していましたが、「気持ちはわかるけど、それは愚痴になるかも」と言われてきました。
どの人に相談しても同じような回答でしたが、
近年ズボンでも良くなり、直近ではグループの制服もなくなり、「ほらみろ」と思いました。(口悪くてすみません。笑)

・会合は直接会場に行かなければいけない→コロナでリモート導入
色んな人がいるのに、コロナになる前までは、会合は会場集合でした。

体調悪いけど会合は参加したい人や、家事育児が大変な人等、様々な理由で行きたいけど行けない人への配慮は?とずっと思っていました。
テレビ電話とか使えばいいと提案していましたが、「使う側がむずかしいからね」と言われなかなか導入されることはありませんでした。
コロナで強制的にリモートを取り入れざるを得なくなり、良かったなと思っています。

・トップダウン型→今も変わらないです。
個々人の話はよく聞いてくれる体制にはなっていますが、組織体制やルール等への意見が直接反映される仕組みにはなっていないと思います。

大きな組織なので大変だと思いますし、随方毘尼(ずいほうびに)という考えを大事にしているので、時代時代で創価学会も変化してきています。
しかし、コロナ直前までは本当に「遅れてるな」という印象が私の中では否めませんでした。
ボトムアップも上手く取り入れていかないと、青年部や未来部が減る一方だと思います。

最初の2つについては、私の意見に否定的だった人たちが「時代やね。すごいね」とか「早くこうなるべきやったな」とか言ってるとイラっとします。笑

語弊も生じているかとは思いますが、
私が学会活動を休止している理由は以上です。

最後に

どんな組織に居ても、色んな人がいます。(何回もくどいですが)
今回は、私が活動休止しようと思う前に強く感じたことをピックアップしています。
なので、否定的なことが並びますが、素晴らしい人がたくさんいますし、やさしい人も本当に多いです。
どんな会社も学会の組織みたいだったら良いのにって何度も思ったことがあります。
ですので、あくまで私個人の主観であり、全否定したいわけではないことをご了承くださいませませ(*- -)(*_ _)ペコリ

活動しなくなってどうなっているかは、また後日、記事にしますね♪

では、乱文・長文をお読みくださってありがとうございました!
何かあれば、お気軽にコメントくださいませ^^

                               ゆるめ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?