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谷の切れ目が縁の切れ目?:広島県中央南部中山間地域【地元再発見の小旅行vol.31-5】

広島県中央南部の中山間地域には花崗岩が広く分布し、その山地の中に西条盆地があります。
全てを1つの盆地として呼ぶ場合は西条盆地と呼ばれているようですが、独立した5つの盆地として、それぞれに名前が付けられています。
今回は南西部に位置する熊野盆地を見てみましょう。

場所を確認

下図の赤で囲った範囲が熊野盆地です。

スーパー地形(カシミール3D)より抜粋した画像をもとに筆者作成。
なおカシミール3Dは元データとして国土地理院の「電子国土」を使っているそうです(出典:国土地理院ウェブサイト
※トップ画像や以下の地形・地図画像すべて引用もとは同じです。

熊野盆地の北半分が熊野町、南部が呉市北西部です。

熊野盆地は上図の⑤です。

地形を見る

上図のように図示してしまうと個別の盆地として認識してしまいます。
しかし小さい縮尺で地形だけ見ると、つながっているようにも見える。

画像の中央南の緑色がかった地域が黒瀬盆地で、その西が熊野盆地です。
両盆地の間は小さい谷でつながっているのでしょうか?

ここまで拡大して見ると、つながってはいないようですね。
そして熊野盆地内部の河川は、どうやら北へ抜けているようです。

やっぱり深くて狭い渓谷になっています。この川は熊野川です。

アップで見ると案外と谷幅が広く、人が住んでいるようです。

そしてやはり、盆地の出口付近には硬い溶結凝灰岩(薄いピンク色)が分布しています。これによって河川が堰き止められやすく、盆地内に土砂が溜まって平坦地をつくったのでしょう。

谷の切れ目

では今度は少しずつ上流へと視点を移し、熊野盆地の中心部を見ていきましょう。

いくつもの川が合流していて、上流ほど谷幅が広がって平坦地が広くなっています。

さらに上流です。建物がたくさんあり、多くの人々が住んでいます!
でも、あれ?
川がつながっていない???

地形だけにしてみると、分かりやすいです。
画像の中央部のあたりは谷地形の溝がボンヤリしていますよね。
まさに、ここも谷中分水界であり、ここより南は二河川(にこうがわ)の流域になります。

熊野盆地内の川は概ねこのような流れになっており、むしろ二河川の方が流域面積は大きい。
熊野川と二河川はかつては1つの河川で、北へ流れていたようです。
(※文献名不明PDFより)

熊野川と二河川の歴史を考える

もとは1つの河川が2つに分かれた原因は、河川争奪だと考えられます。
以前の二河川は、おそらく熊野盆地外の南の山地を流れていた河川で、頭部侵食(河川の源流部が崩れる)で源流部が北に移動するうちに旧熊野川の上流部に達して、熊野川の水が逆流したのではないか?というのが私の仮説です。(もしくは熊野川の「堰き止め」により湖沼化し、二河川に水があふれた可能性も考えられます)

なぜか?と言いますと・・・

盆地外での熊野川と二河川を比べると、熊野川の方が谷幅が広いですよね。
これだけで単純に解釈すれば、熊野川の方が流量が多く、川の歴史も古いと考えることができます。
しかし実際には二河川の方が流域面積が大きく、盆地内では南部の方が凹凸が激しく、侵食は二河川の方が強い。にもかかわらず、下流の谷幅は狭い。

つまり「二河川が現在の流量になってからの歴史は浅いけど、侵食力は熊野川より強くなっている」と言うことなります。
そうすると、二河川が後から熊野川の水を奪ったと考えるのが妥当かと思いますが、いかがでしょうか?

3つの盆地とそれぞれの歴史

川の流れ方が変わって盆地内の地形も変わってしまい、それが人間のつながりにも影響を及ぼしたようです。
と言うのは、実は熊野盆地は細分すると焼山盆地苗代盆地に分けられ、行政区分も違っていました。

この地域に着目した当初は「なぜ同じ盆地なのに熊野町と呉市に分かれているのか?」と疑問に思いましたが、こういうことだったのですね。

赤丸が熊野町。
青丸が焼山盆地で旧焼山村
黄色が苗代盆地で旧本庄村
後に焼山村と本庄村が合併して昭和村になり、昭和31年に昭和村は呉市と合併します(呉市ホームページより)。

地質図を見ても、第四紀の新しい堆積物(薄い水色・緑・ベージュ)がそれぞれに分布しています。
地質が水の流れや地形に影響を与え、それが人間のつながりに影響を与え、地域の歴史に影響していると考えると、感慨深いものがありますよね。

お読みいただき、ありがとうございました。


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