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物欲がない?

物欲はないのか

最近、「物欲がない」という人が増えた気がするけど、ほんとうだろうか。ぼく自身は物欲があると思ったことはないけど、そもそも物欲ってなんだっけ?と思ってみるとよくわからない。

ブランド物の靴、バッグ、洋服などをやたら買いこむという「消費のイメージ」が浮かぶけど、これは狭くとらえすぎだろう。

「欲しいモノがある」というのが広い意味での物欲だとすれば、ぼくにも欲しいモノはある。いま何が欲しい?と聞かれたら、

数学力がほしい

と答える。どれくらい欲しいかと言われれば

ロジャー・ペンローズ(英国の数学者)くらいの力が欲しい

んだけど、これは「美人になりたい」と言うひとが「アンジェリーナ・ジョリーになりたい」と言っているレベルの欲深さである。

まあ、ペンローズはムリだとしても、多少はなんとかしたいので、数学やら量子力学やらの本を買い込んで読むわけだ。

その本を買うにはお金もいるし、読む時間を確保するためにもお金がいる。そして、お金を増やすには経済や金融の知識が必要なのでその手の本も買う。

そうやって、強欲なぼくの回りには本があふれかえっており、足の踏み場もないほどだ。つまり

強欲によってモノがあふれている

状況なので、これは「物欲がある」のとどう違うのだろう。

モノから体験へ?

最近では「モノから体験へ」と言われるけど、これもわかったようでわからない。

筋トレマシンを買いまくっている人がいるとして、その人は筋トレマシンへの物欲があるのだろうか?たぶん、その人が欲しいのはマシンではなくて筋肉だろう。

化粧品を買いまくる人も化粧品フェチなのではなくて「きれいな顔」が欲しいのだろう。洋服を買う人だって洋服を並べて飾って楽しむのではなく、着てきれいに見られたいはずだ。ぼくが本を買うのも同じで、本が欲しいのではなく知識と思考力がほしい。

モノも体験のうち

それでいうなら、物欲が盛んだったといわれる高度成長期もおなじである。当時みんながほしがった「カー・クーラー・カラーテレビ」にしたって突き詰めれば、クーラーを買って眺めて楽しみたいのではなく、

すずしい~

という体験が欲しかったわけだ。

テレビだって、欽ちゃんやドリフを楽しみたいからテレビが欲しい。さらにテレビだけでは見逃してしまうこともあるのでビデオデッキも欲しくなる。

しかし、デッキで録画しているだけでは、見れないものもあるのでDVDもほしくなる。こうやって社会はハードの所有からソフトの所有へとスライドしていった。

記憶の所有へ

僕はDVDで映画を見るのがが好きなんだけど、好きなものは繰り返し見ている。なぜなら1回見て

たのしかった!

と思っても、「たのしかった」というぼんやりした記憶が残るだけでどこがどう楽しかったのか思い出せないからだ。

しかし、同じ作品を20回も見ればDVDを再生しなくてもいろんなシーンを細かく思い出せる。寝そべりながら「あそこよかったな~」などと思えるので見ているのとほとんど変わらない。

そうすると、これは映画の記憶を手に入れているのと同じことになる。筋トレマシンで筋肉を手に入れ、数学の本で数学力を手に入れ、メイクできれいな顔を手に入れるように、DVDを見て映画の記憶を手に入れている。

本を丸暗記する人々

フランソワ・トリュフォーの『華氏451』という映画があるんだけど、これは、思想統制のために書物を読むことが禁じられた近未来の話だ。

でも、中には本を隠し持っている人たちがいて、主人公はそういう人々を摘発して本を焼く役人である。

しかしその彼自身がやがて本の魅力に取りつかれてしまい、社会から抜け出して「ブック・ピープル」と呼ばれる人々の住む自給自足の村にたどりつく。

ブックピープルは一人一冊ずつ本を丸暗記している人々で、いわば人間オーディオブックの集まりだ。

本は焼けてるけど、記憶を焼くことはできないので、ブック・ピープルは本を記憶という形で所有しているといえる。100人いれば100冊の本があるのと同じで、ブックピープルの村=図書館みたいなものである。

これはぼくが映画を繰り返し見て、その記憶を所有しているのと変わらない。

人生とは記憶の所有である

そもそも、本や映画だけでなく人生とは記憶の集まりなのだ。

今をときめくクリストファー・ノーラン監督の初期の代表作『メメント』というのがあるんだけど、この主人公は病気で新しい記憶を保持することができない。

朝になったら前日のことをすべて忘れてしまう。だれに会っても何を食べても翌朝になると忘れている。どんな楽しいことも悲しいことも忘れてしまうわけで、こうなると人生とは言えない。

本をいくら読んでも内容を思い出せなければ読んでないのと同じになるように、この主人公は自分の人生を思い出せないのだから生きていないのと変わりない。

この映画を見ていると、豊かな人生と言うのは豊かな記憶がなければ成り立たないとわかるし、そのことは人々がものを欲しがった時代から体験を欲しがっている現在まで変わらない。

結局人生と言うのは、

豊かな記憶にもとづいて、さらに豊かな体験を導いていく

ということにつきるのだろう。その点は、モノの時代も体験の時代も変わらないように思える。


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