楽しみを減らさないように
履歴書に「趣味」という欄があるでしょう。
たとえばあそこに「映画鑑賞」と書くことはできるけど「映画批評」と書くのはおかしい。同じく「音楽鑑賞」と書くことはできるが、「音楽批評」と書くのはおかしい。
このちがいがなんなのか、ということをここしばらく考えていたのだが、答えはたぶんこういうことだと思う。
つまり、ある行為が趣味と呼べるかどうかは、「社会性」が1つのキーワードになるのだと思える。
承認と期待
さてコトバンクで「社会関係」という言葉を検索すると、こう書かれている。
つまり、お互いに相手を「認めて」「期待する」のが社会関係ということだ。
たとえば、ある会社に正社員としての雇用契約を結んだとすれば、それは会社を儲けさせてくれそうなやつだと認められたことでもあり、その働きを期待されているということでもある。
選挙で候補者が票を獲得するのも同じことで、力量が認められるとともに、今後の活動が期待されていることを意味する。子どもから父親として認められるということは、父親としての働きを期待されていることの裏返しだ。
批評は承認と期待の裏返し
認められるのはうれしいことだが、その裏側には期待があるわけで、人は相手が期待に応えてくれればよろこびを表すし、期待外れなら怒りを表す。これが批評である。
批評とは相手が「期待に応えてくれたかどうかを判定する」行為なのだ。映画批評も同じで、低評価は作品に期待し、
という怒りから生まれる。なので映画を批評してしまえば、雇用や親子が趣味でないのと同じく、映画は趣味ではなくなってしまう。
怒りを向けるものは趣味とは呼べない
これはなんにでも当てはまる。世間がタレントを批判するのも、期待して、裏切られた怒りを向けているのだから趣味ではない。
同じく、誹謗中傷も趣味ではないし、いじめも趣味ではない。
一方、趣味とは、まず「自分で楽しむもの」である。満ち足りて余裕があり、自己完結しているので、相手がどうであろうと楽しめる。それが趣味の趣味たるところであって、切手収集家はコレクションが充実しないからといって郵便局に怒りを向けたりしないし、釣り人は釣れないからといって海に怒りを向けたりしない。
期待を裏切られたから怒りを向けるようなものは、趣味とは呼べない。
なのでSNSは趣味ではない
SNSも、承認と期待にもとづいた関係なので、趣味とは言えない。読んで楽しんでいるだけなら、趣味は
と言えるかもしれないけど、発信を始めれば、承認と期待に左右されるので、趣味とは言えなくなる。ぼくも毎日、他人の反応に左右されているので趣味とは言えなくなっている。
もちろん、世のなかのほとんどのことは趣味ではないし、SNSもその1つにすぎないのだが、それによって「趣味の楽しみが食われてしまう」のは残念なことだ。
楽しみを減らさないように
たとえば、ぼくの趣味の1つは映画鑑賞なのだが、ここに映画のことを書いていると、どうしても他人の批評に対する怒りになってしまうことがあるし、そうすると映画鑑賞が映画批評に変わってしまう。
これまで自給自足の楽しみだったものが、他人の目を意識したアピールに変わる。映画を観ている時間より、映画について書いている時間の方が長くなれば、その分だけ、ぼくにとっての映画は、
に変わってしまうのが残念なことだし、これはぼくだけではないだろう。
SNSが普及するということは、多くの人が「自分勝手に楽しむ」時間を減らして、他者の承認を求める時間を増やしているということなので、社会全体としても、楽しみが減ってイライラが増えているのではないだろうか。
なので、なるべく自分の楽しさを減らさないなものを書いていこうということをあらためて思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?