結婚しなければ不倫はできない
今日の記事は
みたいな内容です。
性の悶え(もだえ)
田山花袋の小説『蒲団』というと、文学史に残る有名な作品だけど、ぼくは昨晩初めて読んだ。読んだのではなくオーディオブックで「聞いた」。そして感想は、
というものである。この作品のあらすじを簡単に言うと、花袋自身をモデルにした主人公の作家が
というものだ。一人で悶え苦しむだけであり、女弟子には指一本触れていない。しかし相手からはかなり露骨に誘われているので、片思いとも言えず、一線を越えるチャンスは何度も訪れている。どう考えても
と思わされるシーンがあり、そういう状況に出くわしたら男女を問わず世間の人々の100人中99人がGOサインを出してしまうであろう場面で、主人公の竹中(花袋)はギリギリのところで踏みとどまってしまう。そして、絶望のあまり「女弟子の蒲団に顔をうずめて泣く」のだ。ちょっとめずらしいヤツなのである。
不倫のオモテとウラ
100人中99人と書いたが、ネットにはそういう不倫の顛末や、その後の身の振り方についての相談があふれていて、きっとあなたも読んだことがあるだろう。ぼくもたくさん読んでいるのだが、「たくさん」の中には2種類あり、オモテのやつとウラのやつである。
オモテのやつとは、ヤフー知恵袋やAll About(オールアバウト)を検索すれば、いくらでもでてくる不倫の顛末記で、ふとよろめいたせいで、離婚・慰謝料・養育費などに追い詰められて死ぬほど後悔している顛末が書かれている。
一方、ウラのやつとは、「夫(妻)にバレることなく、セックスライフを楽しんでま~す」的なヤツで、アダルト系の掲示板に行けば、こちらも数限りなくでてくる。あまりに膨大なので、1億総動員で不倫に励んでいるんじゃないかと錯覚してしまいそうになるけど、作り物も多い。
ウラの投稿には、たとえ不倫でも、思わずホロっとさせられるというか、いい話だなあ・・とおもわされるものも含まれているし、そういうのにかぎってディテールが「これはホンモノだろう」と思わされるようなものがある。たとえ不倫話でも、小説を読むよりよほど面白い。
一方、オモテの記事は、悲惨極まるものばかりだが、その中から最近読んで心に残ったものを2つ挙げてみたい。
「あっさり音信不通に」
1つ目は、7000冊の蔵書が、古本屋でたった4万→「自分自身が空っぽ」という感覚に 後悔して買い戻し中「物に救われている人もいる」
という記事で、不倫の記事ではなく「本を所有することの意義を訴える」ものだそうだが、その点では特に印象に残らなかった。
本というのは1000冊でも生活に困るほどの量になるんだけど、この男性は7000冊所蔵していたというのだから相当なものだ。堀田孝之さんという書籍編集者だそうで、プロである。そして長年ため込んだ蔵書を売り払ってしまってから「まるで心に穴が開いたようになり、後悔している」というんだけど、なぜそんな大事な本を売り払ったのかというとべつに断捨離ではなく
のだが、
そして、
ということなのだそうだ。その思いに共感する人々から多くの人からの反響があったというが、ぼくは
というくだりで、「やっぱりそうなるよな・・」と思っただけである。不倫系の投稿では、イヤになるほど繰り返される展開だ。
「君に対してそこまで本気ではない」
もう1つ、これも数日前に読んだ記事なんだけど「両親にも不倫をバラされました… 家庭崩壊を招いた「W不倫の悲惨な末路」【後編】」である。
幼稚園に通う子どもを通じて知り合ったパパ友と10日に1回のペースで密会を続けていた美花さん(仮名)は、夫から数々の証拠を突きつけられて協議離婚し、両親にばらされて勘当を言い渡されて、現在はアパートで独り暮らし。苦しい生活の中から養育費を送っているという。
不倫相手の男性も、妻が子どもを連れて出ていったのだそうで、ならばその相手と再婚して第二の人生を歩めるかというとそんなことはなく、
のだそうである。やっぱりこうなるのだ。
人生はドーパミン
蔵書家の話も、パパ友のの話も、すべてを失った上で相手が去っていくという点が共通しているんだけど、だからといって
とか
などと言うつもりはない。
「見つかってはいけない」というスリルによって脳内物質ドーパミンが排出されるのだから、不倫にこたえられない快感があるのはまちがいない。
田代まさしさんがヤクをやってエッチしたら「もう元には戻れない」といっていたのと同じで、体に悪いものほどおいしいように、悪いことほど気持ちがイイのだから、不倫に流されてしまうのが人間の自然だと思う。
前に「不倫はNG」みたいな記事も書いたことがあるんだけど、たしかに「愛がどうの」と立派なことを言われると不倫は確実にNGである。しかし
という赤裸々な告白は、オールOKというか、ぜんぶ肯定したくなりますね。
どちらに転んでもいい人生
たとえ一線で踏みとどまったとしても、花袋のように絶望のあまり「女弟子の蒲団に顔をうずめて泣く」ことになるのだったら、どちらに転んでも不幸だともいえる。
しかし、考えようによっては「女弟子の蒲団に顔をうずめて泣く」のもなかなかにドーパミンが排出されそうに思えるので、どちらに転んでも深い快楽を味わえるともいえる。
サラリーマンになれなければ脱サラできないように、結婚しなければ不倫を味わうこともできないのだから、不倫は、結婚した人だけが味わえる禁断の蜜の味だ。それをひとときなりとも味わえたのだから、不倫に流れるのもいい人生なのではないだろうか。
一方で、3人の子どもがいる家の2階で、ひそかに女弟子の蒲団に顔をうずめて泣くというのも誰にでもは味わえる快楽ではないので、これもまたいい人生ではないかとおもう。
いずれにせよドーパミン
いざ表ざたになったら、相手が音信不通になったり、去って行かれたりするのも「愛が覚めた」とか、「相手が不誠実」とか言うことではなくて、真昼間のキャバクラがシラケて見えるように、ドーパミンが消えたから冷めたというだけだろう。
なんにせよ、ドーパミンに弱いのは人類みな同じなのだから、賢い人生と愚かな人生があるわけではなく、ドーパミンに無縁の人生とドーパミンにおぼれる人生があるだけであり、ひとときの快楽におぼれるもよし、蒲団に顔をうずめて泣くもよしで、どちらに転んでもドーパミンに無縁の人には味わえない良い人生なのだろう。それをひそかに読むもよしである。
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