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こういう話を酒場でしてみたい

昨晩のことだ。午後8時は過ぎていたと思う。

スーパーに行った帰りに、うすぐらい路地を歩いていると、向こうから二人連れの女性がジョギングしながら近づいてきた。

さかんにおしゃべりしつつ走っている。暗いから顔はわからなかったけど、30代後半から40代前半だと思われる。

背の高いほうがさかんにしゃべり、背の低いほうが「ふーん」などとあいづちを打っていた。

何を話していたのかは覚えていないけど、やや息の上がった、よく通る高音で、元気にまくしたてているのを聞いていると、なんだか音楽のように聞こえてきたのだ。

女性の声って音楽みたいだなあ・・

と聞きほれつつ通りすぎた。

酒場で誰かに話してみたい

この話には続きがあるんだけど、その前に、ここまでのくだりを酒場でだれかに話してみて、その反応を聞いてみたいような気がしてきた。

先の展開はあとで書くつもりだけど、その前にいったん切って、誰かの反応を聞いてみたい。

暗い路地で、女性の声が音楽に聞こえた・・

みょうな話といえばみょうな話で、内容があるようでないような、何を言いたいのかわからない、酒を飲んで話すのにうってつけの話だ。

だれかから、なにか気の利いたことや、おもしろいことや、ぼくには思いつかないことを、言ってもらいたい。

こういう話のできる相手がいなくなった

しかし、かんがえてみれば、今僕の周りに、こういう話のできる相手はいない。もしこの話の最後が、

ふりむいたら女性の姿はなかった・・

ということなら、怪談好きの人に話せる。

または、

日本は夜中に女性がジョギングできるほど治安の良い国である

という角度からなら、社会状況について語ってくれる人もいるだろう。

でも、そういう風に意味づけしないで、ちょっと色気のある、とらえどころのないみょうな話としてそのまんま話したら、周囲からは

・・・

沈黙が返ってきそうな気がする。

こういう与太話を、おもしろおかしく料理してくれる人たちに囲まれていた世界を離れて、ずいぶん時間が経ってしまったということにふと気づいたのだった。

雨上がり宮迫さんのこと

それで思いだしたのだが、1年くらい前に、宮迫博之さんが焼き肉屋を始めてからの生活について語っているインタビューを読んだことがあった。

芸人時代と現在の生活で何が変わったかを聞かれて、

会う人がガラッと変わりました。テレビ時代は毎日のように周りに腕のある芸人さんがいて、お仕事とはいえ、これでもかと腹を抱えて笑っていたなと。
今は今で自分の責任でやりたいことができている。それはとてもありがたいんですけど、腹を抱えて笑う回数は純粋に減りました。

と答えていた。

なんかわかる気がする。

たとえば宮迫さんの前に「おもしろくできる」話のタネが転がっていたとしよう。テレビに出ていたころなら、周囲のプロが競い合っておもしろくしてくれていたはずだ。

でも、焼肉店のスタッフにはそういうことはできない。そのちがいに、環境が変わったさびしさみたいなものを感じたのではないか。

かつて、ぼくのまわりに面白い人はいなかったけど、みょうな話を語る連中はたくさんいた。つまり、文学好きということだ。

文学というと小難しそうだが、とどのつまりは

みょうな話

である。

ミステリー小説、恋愛小説、歴史小説、ホラー小説、医療サスペンス小説、などなどいろんなジャンルがあるけど、そういうジャンルに着地できない「みょうな話」が、純文学などと言われる。

そういうみょうな話は、それ自体として扱うより仕方がないわけで、そういう話の好きな連中と飲みに出かけたら、だいたいみょうな話の連続になる。

若い頃、僕の周りにはそういう連中がたくさんいたのだが今はいない。自分で選んだ道なので後悔はないけど、意外なものが失われてちょっとさびしい。まあ、いずれそういう人たちに出会う時期もめぐってくるのだろう。

いのちの美しさは時間の中にある

長くなってきたので、「女性の声が音楽に聞こえた」話のつづきは、明日にします。

前々から、女性のうつくしさは、造作よりも表情に表れると確信している。これは「美しさは動きの中にある」ということと同じなんだけど、まあ、自分で考えつくことはしょせん自分が考えそうなことなので、だんだん飽きてくる。たまにはまったく違う角度からの話も聞いてみたくなったということです。

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