宇宙と世間とどっちが大きいか?
こう聞かれたら多くの人は「当たり前のことを聞くな」と言うだろう。宇宙のほうが広いに決まっていると。
たしかに宇宙は広大で、銀河系はそのごく一部分にすぎない。そして、その銀河系のすみっこに太陽系というのがあって、その太陽系の中の小さな惑星が地球である。
その地球の中のごく一部分が「世間」と呼ばれている場所なのだから、そう考えれば、宇宙と世間の広さを比べるのはおよそバカげている。そう思うのがふつうである。
でも、ぼくは宇宙より世間のほうが広いと思っている。その理由を説明してみよう。
宇宙より世間のほうが広い理由
上に銀河系がどうたら、太陽系がどうたらと書いたが、これらは全部、ぼくの頭の中に納まっている知識に過ぎない。
本当の宇宙とは、頭の中の知識ではなく、地球の外側に広がっている空間である。そしてその空間がどれくらい広いのかを知りたければ、そこに行ってたしかめるしかない。
宇宙へ行こうと思えばまずロケットを打ち上げなければならないが、それには莫大な費用と、たくさんの人間が必要だ。そうやってたくさんの人が関わってようやく宇宙にでかけることができた時、その宇宙はすでに
になっている。いいかえれば地球のしがらみを背負った場所になっている。
どれだけ遠くに行ったとしても同じことだ。いまのところ、人間は月までしか到達していないが、あそこにはアメリカの国旗が立っており、そのこと自体、あそこが世間のしがらみを背負った場所だということを物語っている。
同じく、いずれ火星にたどり着いたとしても、そのときは火星も、さまざまな地球上のしがらみに縛られた「世間」になっていることだろう。
はるか未来に、人類がアンドロメダ星雲まで行けるようになったとしても同じことであり、世間のしがらみの外に出ることはできない。
アンドロメダまで行っても、人類はそこで、恋をしたり、争ったり、見栄を張ったり、自己嫌悪におちいったり、ウソをついたり、人のモノを盗んだりし、そのことで非難されたり、称賛されたり、罰せられたりするのだ。
人がいつの日か、宇宙の果てにたどりつき、さらにその外側に踏み出すことができたとしても、同じである。その「宇宙の果て」の向こう側の世界は、人が足を踏み入れた時点で、世間のしがらみにしばられる。
いいかえれば、人は宇宙の外側には出られても、世間にしがらみの外側には出られないのだ。ということは、宇宙より世間のほうが大きいということになる。
大きな宇宙と小さな宇宙
外宇宙を仮に「大きな宇宙」と呼ぶならば、ぼくが頭の中で想像している宇宙は小さな宇宙だといえる。しがらみにしばられないプライベートな宇宙といってもいい。
人のこころの内側に広がる小さな宇宙は、世間とは没交渉でいられる静かな空間だ。
あなたが大きな宇宙と小さな宇宙のどちらを好むのかは知らないがぼくは
静かでプライベートな小さな宇宙のほうを好む。
そして、この「大きな○○と小さな○○」のちがいは、ほかのいろいろな物事にも当てはめることができる。
大きな映画と小さな映画
この考え方を応用するなら、映画にも大きな映画と小さな映画がある。
映画とは、そもそもお金をかけて大人数で作られ、たくさんの観客を動員してようやく採算が取れるのだから、世間のしがらみに縛られた大きなものである。
新作が公開されたら、ほめる人、けなす人、儲ける人、損をする人、論じる人、争う人、自慢する人、バカにする人などが交錯するので世間そのものである。
ところで、いま手元に『恐怖の火星探検』という1958年のB級SF映画のDVDがあるのだが、スタッフもキャストもすでに亡くなっているし、著作権も切れているので、これで得をする人も損をする人もない。
そのうえで、日本中でいま、この時間にこの作品のことを考えている人は何人いるだろう。ひょっとして僕一人かもしれない。だとすれば、ほめる人もけなす人も争う人もいないことになる。
こういうものが世間から忘れ去られた小さな映画であり、いいかえればぼくの頭の中だけで完結している、小さな宇宙だ。
世間とは無関係の、1対1の対話
昨晩、堀辰雄の『聖家族』という小説を読んだんだけど、同じ時間帯に日本中でこれを読んだ人はもしかするとほかにいないかもしれない。だとすれば、これも忘れられた小さな小説だということになる。
小さな映画や小さな小説に向き合う時、ぼくは登山家が山に向き合い、昆虫マニアが昆虫に向かい合うのと似たようなことをやっている気持になる。世間のしがらみとは無関係で、目の前の存在と1対1の対話をやっている。
そこには見栄も争いもウソも自意識も必要ない、プライベートビーチのような空間なので、こういうものを好んでいるのである。
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